アルジェリア独立戦争

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==アルジェリア独立戦争== ==アルジェリア独立戦争==
- +アルジェリア独立戦争は、推定30万人のイスラム系アルジェリア人が殺害され、100万以上のヨーロッパ人入植者に国外脱出を強いた苛酷な植民地戦争となった。フランス軍は2万4000以上の死者を出し、フランス人入植者6000人が殺された。この戦争は、直接ないし間接に宗主国フランスの首都6人の退陣と第四共和制の崩壊をもたらす結果となった。またフランスをシャルル・ドゴール大統領の退陣と内戦の一歩手前まで追い込んだ。戦争は、先住民からなる軽武装の軍隊と主として外国人からなる軍隊の間のゲリラ戦であった。加えて、1世紀以上にわたり家族とともに現地で暮らしてきてアルジェリアを故郷と見なすようになった「ピエ・ノワール」(黒い足)と呼ばれるフランス人入植者100万人以上に真っ向から反対したことで、戦いはさらに激しいものになった。
-==経歴==+==チュニジアとモロッコへの脱出==
-1234年に+フランス軍による収容を避けるため、多数のアルジェリア人が国境を越えてチュニジアとモロッコに逃れた。1957年8月にUNHCRの法律顧問ポール・ワイスは、多くが2年間に約3万人がアルジェリアから逃れたと記しており、そのすべてが緊急援助を必要とするとされた。さらにワリスは、多くが「prima facie(一応の)認定」(集団認定)難民に該当すると論じた。すなわち、「彼らは人種もしくは民族的・政治的共感ゆえにフランス当局による民間人処分の対象とされていたが、いわゆる『ratissage(熊手)作戦』においてそうした処分の対象となる可能性があると信ずる理由がある」との根拠から、UNHCR事務所規定6項Bの下でUNHCRが保護と援助の権限を有する「prima facie認定」難民に該当する、としたのだった。
 +1956年3月にフランスから独立したチュニジアとモロッコの両政府は、彼らに十分な援助を提供できなかった。1957年5月、チュニジアのハビブ・ブルギバ大統領は、UNHCR高等弁務官オーグスト・リンツに援助を要請する。これを受けてリンツは、最も経験を積んだ職員の一人であるアーノルド・ローホルトをチュニジアに派遣する。物資的援助に限定したUNHCRの救助事業にフランス政府の反対がないことを確認した上で、リンツは当初資金の拠出をスイス政府に要請した。
 +==停戦と帰還==
 +1962年3月18日、フランスとアルジェリア暫定政権の間で停戦協定が交わされた。エビアン停戦協定の条項には、独立の是非を問う1962年7月1日の国民投票実施までにモロッコとチュニジアから難民を帰還させる方策が盛り込まれていた。
 +5月4日~7月25日の間に、6万1400人以上の難民がモロッコから帰還した。チュニジアからは、5月30日~7月20日の間に12万人の難民が帰還。移送はモロッコとチュニジアの国内のセンターからから実施され、12の医療チームが帰還前に難民を検診した。家のない難民のために役1万5000張のテントが配られた。これらの数字は、UNHCRに登録されていた数字を下回るものであった。難民が援助を受けずに帰還したケースや、モロッコおよびチュニジアの社会に定着したケースもあった。また、難民の二重登録による水増しもあった。UNHCRは、後の救援事業で繰り返しこの現象に直面することになる。この帰還事業の総費用は、124万1000米ドルであった。
 +==アルジェリアにおける帰還民の定着とフランスへの流出==
 +フランスに向かった人々の中には、フランス軍の1員として戦争を戦ったアルジェリア人や、フランス植民地政府のために働いていたアルジェリア人もいた。「アルキ」と呼ばれる人々である。1962年~67年の間に16万人以上がフランス軍の助けでフランスへ移住した。彼らはフランスの市民権を得たが、定着と差別の問題に直面した者も多く、この問題は今もなお続いている。アルジェリアでは「アルキ」は裏切り者と見なされ、迫害と死に直面した。推定10万人以上が戦争後に殺されたものとみられている。
 +アルジェリアにおける帰還民の再定着の問題も大きかった。彼らは戦争による広範な破壊に苦しめられたことに加え、ヨーロッパ系入植者すなわち「ピエ・ノワール」が突如として完全に消えたことで、アルジェリア社会のインフラも後輩していた。UNHCRにとって、これは紛争後の状況に取り組む幾多の関与の始まりを記すものとなる。後年のケースも往々にしてそうなるように、アルジェリアに平和はおとずれても、その平和を経済的・制度的再建とともに確たるものにする国際社会の関与に限りがあった。10月に高等弁務官シュニデールは国連事務総長ウ・タントに書簡を送り、アルジェリア新政府に対する広範な国際協力の必要性を訴えると同時に、アルジェリアへのUNHCRの協力を申し出た。シュニデールは、こう記した。「帰還した元難民たちの運命は、もはやアルジェリア国民全体のそねと切り離すことはできない。さもなければ、アルジェリアの社会的安定を深刻な危険にさらすことになる」。この言葉の精神は、後の高等弁務官にも引き継がれる。
 +アルジェリア危機におけるUNHCRの関与は、決して自明のものではなかった。1957年のリンツによる関与の決断も、論争を伴わないものではなかった。UNHCRの幹部の一部には、そうして行動はフランス政府の激怒を招くおそれがあるとの見解があった。しかし、リンツは、UNHCRの権限は世界的・普遍的に適用されるものであり、共産主義から逃れる難民だけに関与を限定することはできないとの極めて明確な見解を持っていた。アルジェリア危機におけるUNHCRの活動は、難民問題の世界的性格ばかりか、難民の保護と援助に関する協調的かつ効果的な国際行動の潜在的可能性を浮き彫りにした。1960年代のアルジェリアでの関与を皮切りとして、UNHCRの活動は世界的な性格を大幅に帯び始めた。
 +==参考文献==
 +「世界難民白書2000-人道行動の50年史」 2001年 中山恒彦 時事通信社

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目次

アルジェリア独立戦争

アルジェリア独立戦争は、推定30万人のイスラム系アルジェリア人が殺害され、100万以上のヨーロッパ人入植者に国外脱出を強いた苛酷な植民地戦争となった。フランス軍は2万4000以上の死者を出し、フランス人入植者6000人が殺された。この戦争は、直接ないし間接に宗主国フランスの首都6人の退陣と第四共和制の崩壊をもたらす結果となった。またフランスをシャルル・ドゴール大統領の退陣と内戦の一歩手前まで追い込んだ。戦争は、先住民からなる軽武装の軍隊と主として外国人からなる軍隊の間のゲリラ戦であった。加えて、1世紀以上にわたり家族とともに現地で暮らしてきてアルジェリアを故郷と見なすようになった「ピエ・ノワール」(黒い足)と呼ばれるフランス人入植者100万人以上に真っ向から反対したことで、戦いはさらに激しいものになった。

チュニジアとモロッコへの脱出

フランス軍による収容を避けるため、多数のアルジェリア人が国境を越えてチュニジアとモロッコに逃れた。1957年8月にUNHCRの法律顧問ポール・ワイスは、多くが2年間に約3万人がアルジェリアから逃れたと記しており、そのすべてが緊急援助を必要とするとされた。さらにワリスは、多くが「prima facie(一応の)認定」(集団認定)難民に該当すると論じた。すなわち、「彼らは人種もしくは民族的・政治的共感ゆえにフランス当局による民間人処分の対象とされていたが、いわゆる『ratissage(熊手)作戦』においてそうした処分の対象となる可能性があると信ずる理由がある」との根拠から、UNHCR事務所規定6項Bの下でUNHCRが保護と援助の権限を有する「prima facie認定」難民に該当する、としたのだった。 1956年3月にフランスから独立したチュニジアとモロッコの両政府は、彼らに十分な援助を提供できなかった。1957年5月、チュニジアのハビブ・ブルギバ大統領は、UNHCR高等弁務官オーグスト・リンツに援助を要請する。これを受けてリンツは、最も経験を積んだ職員の一人であるアーノルド・ローホルトをチュニジアに派遣する。物資的援助に限定したUNHCRの救助事業にフランス政府の反対がないことを確認した上で、リンツは当初資金の拠出をスイス政府に要請した。

停戦と帰還

1962年3月18日、フランスとアルジェリア暫定政権の間で停戦協定が交わされた。エビアン停戦協定の条項には、独立の是非を問う1962年7月1日の国民投票実施までにモロッコとチュニジアから難民を帰還させる方策が盛り込まれていた。 5月4日~7月25日の間に、6万1400人以上の難民がモロッコから帰還した。チュニジアからは、5月30日~7月20日の間に12万人の難民が帰還。移送はモロッコとチュニジアの国内のセンターからから実施され、12の医療チームが帰還前に難民を検診した。家のない難民のために役1万5000張のテントが配られた。これらの数字は、UNHCRに登録されていた数字を下回るものであった。難民が援助を受けずに帰還したケースや、モロッコおよびチュニジアの社会に定着したケースもあった。また、難民の二重登録による水増しもあった。UNHCRは、後の救援事業で繰り返しこの現象に直面することになる。この帰還事業の総費用は、124万1000米ドルであった。

アルジェリアにおける帰還民の定着とフランスへの流出

フランスに向かった人々の中には、フランス軍の1員として戦争を戦ったアルジェリア人や、フランス植民地政府のために働いていたアルジェリア人もいた。「アルキ」と呼ばれる人々である。1962年~67年の間に16万人以上がフランス軍の助けでフランスへ移住した。彼らはフランスの市民権を得たが、定着と差別の問題に直面した者も多く、この問題は今もなお続いている。アルジェリアでは「アルキ」は裏切り者と見なされ、迫害と死に直面した。推定10万人以上が戦争後に殺されたものとみられている。 アルジェリアにおける帰還民の再定着の問題も大きかった。彼らは戦争による広範な破壊に苦しめられたことに加え、ヨーロッパ系入植者すなわち「ピエ・ノワール」が突如として完全に消えたことで、アルジェリア社会のインフラも後輩していた。UNHCRにとって、これは紛争後の状況に取り組む幾多の関与の始まりを記すものとなる。後年のケースも往々にしてそうなるように、アルジェリアに平和はおとずれても、その平和を経済的・制度的再建とともに確たるものにする国際社会の関与に限りがあった。10月に高等弁務官シュニデールは国連事務総長ウ・タントに書簡を送り、アルジェリア新政府に対する広範な国際協力の必要性を訴えると同時に、アルジェリアへのUNHCRの協力を申し出た。シュニデールは、こう記した。「帰還した元難民たちの運命は、もはやアルジェリア国民全体のそねと切り離すことはできない。さもなければ、アルジェリアの社会的安定を深刻な危険にさらすことになる」。この言葉の精神は、後の高等弁務官にも引き継がれる。 アルジェリア危機におけるUNHCRの関与は、決して自明のものではなかった。1957年のリンツによる関与の決断も、論争を伴わないものではなかった。UNHCRの幹部の一部には、そうして行動はフランス政府の激怒を招くおそれがあるとの見解があった。しかし、リンツは、UNHCRの権限は世界的・普遍的に適用されるものであり、共産主義から逃れる難民だけに関与を限定することはできないとの極めて明確な見解を持っていた。アルジェリア危機におけるUNHCRの活動は、難民問題の世界的性格ばかりか、難民の保護と援助に関する協調的かつ効果的な国際行動の潜在的可能性を浮き彫りにした。1960年代のアルジェリアでの関与を皮切りとして、UNHCRの活動は世界的な性格を大幅に帯び始めた。

参考文献

「世界難民白書2000-人道行動の50年史」 2001年 中山恒彦 時事通信社


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