第一次世界大戦4
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2018年1月26日 (金) 15:41の版
第一次世界大戦前夜
1 ドイツの政策転換
英独墺の三帝同盟(1873)と独墺伊の三国同盟(1882)は、ビスマルクのフランス孤立化政策の成果であったが、新政をはじめたドイツ皇帝・ヴィルヘルム二世は、ロシアとの距離をおく政策をとる。その結果フランスの孤立が解消する形で、1891年、露仏同盟が成立した。また3B政策(ベルリン・ビザンチウム・バグダードを鉄道で結ぶ)に代表される対外政策の積極化は、英独関係を悪化させ、イギリスは「名誉ある孤立」政策を転換させる。イギリスは1902年には日英同盟も結び、英仏協商(1904)、英露協商(1907)を成立させた(三国協商)。1905年、ヴィルヘルム二世がモロッコのタンジールを訪問、フランスのモロッコ進出に反対する(第一次モロッコ事件)。モロッコは英仏協商で、フランスの優越権をイギリスが認めた場所。ドイツはこれに反対していた。翌年、調停のための会議(アルヘシラス会議)が開催されるも、フランスの優位性の再確認で終わる。1911年、ドイツ艦隊が