ナショナル・トラスト4
出典: Jinkawiki
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このバーミンガムでの演説にいち早く支援の声をあげたのがオクタヴィア・ヒル女史だった。1884年2月10日付の、ハンター氏あての彼女の手紙には「新しい団体にはトラストという名をつけたらどうでしょう」と書いてあり、これを読んだハンター氏が余白に「ナショナル・トラスト?」と走り書きした。これが命名のエピソードである。 | このバーミンガムでの演説にいち早く支援の声をあげたのがオクタヴィア・ヒル女史だった。1884年2月10日付の、ハンター氏あての彼女の手紙には「新しい団体にはトラストという名をつけたらどうでしょう」と書いてあり、これを読んだハンター氏が余白に「ナショナル・トラスト?」と走り書きした。これが命名のエピソードである。 | ||
名前は決まった。しかしその新しい組織が形を成すまでには、さらに数年の歳月を要した。ロバート・ハンター氏もオクタヴィア・ヒル女史も、それぞれの社会活動に忙殺されて身動きが出来なかったからだ。そうしたところへ、牧師のキャノン・ローンズリィ氏が現れる。思想家で芸術評論家として有名なジョン・ラスキンが彼をオクタヴィア・ヒル女史に紹介したのである。 | 名前は決まった。しかしその新しい組織が形を成すまでには、さらに数年の歳月を要した。ロバート・ハンター氏もオクタヴィア・ヒル女史も、それぞれの社会活動に忙殺されて身動きが出来なかったからだ。そうしたところへ、牧師のキャノン・ローンズリィ氏が現れる。思想家で芸術評論家として有名なジョン・ラスキンが彼をオクタヴィア・ヒル女史に紹介したのである。 | ||
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+ | 参考文献 | ||
+ | 木原啓吉(1992)『ナショナル・トラスト』三省堂 | ||
+ | 四元忠博(2007)『ナショナル・トラストへの招待』緑風出版 |
2018年1月26日 (金) 22:57の版
目次 |
ナショナル・トラストとは
概要
目的
方法
ナショナル・トラストの創立
三人の提唱者
ナショナル・トラストは1895年に創立された。弁護士のサー・ロバート・ハンター、社会事業家で婦人運動家のオクタヴィア・ヒル女史、牧師のハードウィック・ローンズリィ氏の三人が話し合って組織した。三人はいずれも優れた改革者の特質とも言うべき卓越した理想主義と判断力、そしてビジョンと決断力を兼ね備えていたと言われている。それぞれナショナル・トラストの創立以前から自然や歴史的環境の保全運動にたずさわっていた。
サー・ロバート・ハンター
ロバート・ハンター氏はかつて郵便局の事務弁護士として活躍した。十三人の郵便大臣のもとで30年間、優秀な公務員として業績をあげた。1868年、24歳のときから、共用地保存協会の事務弁護士にもなり、ロンドン北東のエセックス州の行楽地で、もと王室の所有林だったエピングの森6,000エーカーをエンクロージャー(囲い込み)から解放し、功績をあげたとされている。
オクタヴィア・ヒル
オクタヴィア・ヒル女史はフローレンス・ナイチンゲールと並んで、十九世紀のイギリスの社会改良運動に貢献した女性として知られている。「ナイチンゲールは病人の看護に一生を捧げた。一方、オクタビア・ヒルは人々が病気そのものにならないようにするために献身的に活動した」と評価されている。貧しい人々のための住宅改良運動の先駆者だったのである。 1860年代、ビクトリア時代中期のロンドンでの下層社会の住宅状況は悲惨なものであった。この人々に「太陽とその居間にきれいな空気」をもたらすために、都市の中にオープン・スペース(村落地と農耕地の周囲に広がっている野原や森林地などを含めた広大な土地)を確保する必要性をヒル女史は訴え、そのための活動を展開していた。彼女はたまたまロバート・ハンター氏と知り合い、その共用地保存運動に協力しているとき、ハンター氏からナショナル・トラスト運動を始めたいとの相談を受け、深く共鳴して協力することになった。
キャノン・ハードウィック・ローンズリィ
ハードウィック・ローンズリィ氏は、イングランドの北西部にあるケズウィック町の近くで、教区牧師をしていた。彼が住んでいたところはイングランド北西の有名な景勝の地である湖水地方だ。彼はここの自然を愛し、その保護運動に長年たずさわっていた。
三人の出会いとナショナル・トラスト
ハンター氏が共用地保存協会の弁護士として活躍した経験からナショナル・トラストの構想を思いつき発表したのは1884年である。その年の9月、彼はバーミンガムで開かれた全国社会科学振興協会の集会で演説を行った。その内容からは、彼が共用地保存協会での経験をもとに現行法律を慎重に検討した結果、単なるボランタリーな団体ではなく、確固とした基盤を持つ法人組織の必要性を確信したことが分かる。 このバーミンガムでの演説にいち早く支援の声をあげたのがオクタヴィア・ヒル女史だった。1884年2月10日付の、ハンター氏あての彼女の手紙には「新しい団体にはトラストという名をつけたらどうでしょう」と書いてあり、これを読んだハンター氏が余白に「ナショナル・トラスト?」と走り書きした。これが命名のエピソードである。 名前は決まった。しかしその新しい組織が形を成すまでには、さらに数年の歳月を要した。ロバート・ハンター氏もオクタヴィア・ヒル女史も、それぞれの社会活動に忙殺されて身動きが出来なかったからだ。そうしたところへ、牧師のキャノン・ローンズリィ氏が現れる。思想家で芸術評論家として有名なジョン・ラスキンが彼をオクタヴィア・ヒル女史に紹介したのである。
参考文献 木原啓吉(1992)『ナショナル・トラスト』三省堂 四元忠博(2007)『ナショナル・トラストへの招待』緑風出版