性悪説
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性悪説(せいあくせつ)とは、紀元前3世紀ごろの中国の思想家荀子が孟子の性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張。「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」(『荀子』性悪篇より)から来ている。 | 性悪説(せいあくせつ)とは、紀元前3世紀ごろの中国の思想家荀子が孟子の性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張。「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」(『荀子』性悪篇より)から来ている。 | ||
+ | 「荀氏」第十七巻第二十三性悪篇に以下のように書かれている。人間の本性すなわち生まれつきの性質は悪であって、その善というのは偽すなわち後天的な作為の矯正によるものである。さて考えてみるに、人間の本性には生まれつき利益を追求する傾向がある。この傾向のままに行動すると、他人と争い奪いあうようになって、お互いに譲りあうことがなくなるのである。また、人には生まれつき嫉んだり憎んだりする傾向がある。この傾向のままに行動すると、傷害ざたを起こすようになって、お互いにまことを尽くして信頼しあうことがなくなるのである。また、人には生まれつき耳や目が、美しい声や美しい色彩を聞いたり見たりしたがる傾向がある。この傾向のままに行動すると、節度を越して放縦になり、礼儀の形式や道理をないがしろにするようになるのである。 | ||
+ | 以上のことからすると、人の生まれつきの性質や心情のおもむくままに行動すると、きっと争い奪いあうことになり、礼儀の形式や道理を無視するようになり、ついには世の中が混乱に陥るようになるのである。だから、必ず先生の教える規範の感化や礼儀に導かれて、はじめてお互いに譲りあうようになり、礼儀の形式や道理にかなうようになり、世の中が平和に治まるのである。 | ||
+ | 以上のことからすると、人の生まれつきの性質は悪いものであることは明瞭である。したがって人の善い性質というのは、後天的な矯正によるものなのである。 | ||
- | == '''「善」と「悪」の定義''' == | ||
- | ここで荀子が人間の本性として捉える「悪」とは、人間が美しいものを見ようとしたり空腹感を覚えたり安楽を望もうとしたりするという自然な欲望のことであって、現代日本語のいう「悪」とは異なる。荀子は、人間の本性はこのように欲望的存在にすぎないが、後天的努力(すなわち学問を修めること)により公共善を知り、礼儀を正すことができると説いた。 | + | 参考文献:荀氏、沢田多喜男・小野四平訳、世界の名著10 諸子百家、中央公論社 |
- | 要するに、「人の性は悪」は結論(論旨)ではなく前提(論拠)である。荀子が重視したことは「後天的努力」であり、「孔子ですら生まれたときから聖人だったわけではなく、学問によって聖人になることが出来た」とする考え方である。また、法家は、学問で矯正するよりも、法による統治で悪を未然に排除することに重きを置いた。 | + | |
- | なお、人間の本性が欲望的存在に過ぎないという醒めた人間観は法家の思想の根本となり、後に荀子の弟子である韓非、李斯などの法家の思想の底流をなす事になった。 | + | |
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- | == '''誤用''' == | + | |
- | 性悪説の「悪」は上述のように現代日本語の「悪」とは異なる。人間は努力すれば孔子のような聖人になれるという主張が性悪説の根幹にはある。つまり荀子における「善」「悪」は相対的な概念であって、絶対的な「悪」なるものは想定されていない。したがって、頻繁にみられる「人間の本性が悪だから、人間は悪事を為すのが当然である」というような解釈は誤用といえる。 | + | |
- | なお、キリスト教における原罪が性悪説の一種と紹介されることもあるが、これも性悪説への誤解に基づくものである(「善悪」という語の用法が性悪説と原罪説ではそもそも異なる)。 | + | |
- | 戦国末に生きた荀子には、社会の荒廃、礼儀の衰退が強く目に映り、このような説を唱えるようになったのも無理はないかもしれない。しかし、そのあとに続く文を読むならば、彼の説く性悪説は孟子の性善説と対立する考え方ではなく、実は人間の悪の面を強調し、人間が悪に走りやすい傾向を指定した説に過ぎないことが分かる。 たとえば、性悪説によれば、聖人君子の存在は説明出来ないはずであるが、これは精進努力した結果、悪を克服した人間像のことである、などと説明しているからである。 荀子の言いたかったことは、人間の性悪そのものではなく、その性悪も努力次第では克服できるとして、努力の持続の重要さを主張しようとする点にあった。 | + | |
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- | 引用(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%82%AA%E8%AA%AC) | + | |
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- | ハンドル名 Nelo | + |
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性悪説
性悪説(せいあくせつ)とは、紀元前3世紀ごろの中国の思想家荀子が孟子の性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張。「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」(『荀子』性悪篇より)から来ている。
「荀氏」第十七巻第二十三性悪篇に以下のように書かれている。人間の本性すなわち生まれつきの性質は悪であって、その善というのは偽すなわち後天的な作為の矯正によるものである。さて考えてみるに、人間の本性には生まれつき利益を追求する傾向がある。この傾向のままに行動すると、他人と争い奪いあうようになって、お互いに譲りあうことがなくなるのである。また、人には生まれつき嫉んだり憎んだりする傾向がある。この傾向のままに行動すると、傷害ざたを起こすようになって、お互いにまことを尽くして信頼しあうことがなくなるのである。また、人には生まれつき耳や目が、美しい声や美しい色彩を聞いたり見たりしたがる傾向がある。この傾向のままに行動すると、節度を越して放縦になり、礼儀の形式や道理をないがしろにするようになるのである。 以上のことからすると、人の生まれつきの性質や心情のおもむくままに行動すると、きっと争い奪いあうことになり、礼儀の形式や道理を無視するようになり、ついには世の中が混乱に陥るようになるのである。だから、必ず先生の教える規範の感化や礼儀に導かれて、はじめてお互いに譲りあうようになり、礼儀の形式や道理にかなうようになり、世の中が平和に治まるのである。 以上のことからすると、人の生まれつきの性質は悪いものであることは明瞭である。したがって人の善い性質というのは、後天的な矯正によるものなのである。
参考文献:荀氏、沢田多喜男・小野四平訳、世界の名著10 諸子百家、中央公論社