ザメンホフ2
出典: Jinkawiki
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2010年6月14日 (月) 14:22の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) 次の差分へ → |
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'''「私は、グロドノ県のビアリストクに生まれました。生誕し幼年期をすごしたこの場所が、私の将来の活動方向を決定したのです。ピアリストクには、四つの異なる民族が住んでいました。ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人です。それぞれ言葉が違い、互いに不和反目していました。感じやすい心を持つ人は、どこにもましてこの町で、言語の相違という重荷を痛感します。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、しだいに確信するようになるのです。私は理想主義者として育ちました。人はすべて兄弟だと教えられました。ところが、通りでも広場でも一足歩くたびに、私はいやおうなしに痛感しました、「人間なんていないんだ。いるのは、ロシア人やポーランド人やドイツ人やユダヤ人だけだ。」子供が抱くこんな「世界苦」をせせら笑う人もいるかも知れませんが、幼い私にとってこの経験は、いつも大きな悩みの種でした。当時は大人というものは何でもできると思っていたので、私はしじゅう自分に言いきかせていました。大人になったら、この害悪をきっとなくしてみせる。」-------引用(マージョリー・ボウルトン・著、水野義明・訳、新泉社、1993年11月1日発行「エスペラントの創始者ザメンホフ」23~24P)------- | '''「私は、グロドノ県のビアリストクに生まれました。生誕し幼年期をすごしたこの場所が、私の将来の活動方向を決定したのです。ピアリストクには、四つの異なる民族が住んでいました。ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人です。それぞれ言葉が違い、互いに不和反目していました。感じやすい心を持つ人は、どこにもましてこの町で、言語の相違という重荷を痛感します。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、しだいに確信するようになるのです。私は理想主義者として育ちました。人はすべて兄弟だと教えられました。ところが、通りでも広場でも一足歩くたびに、私はいやおうなしに痛感しました、「人間なんていないんだ。いるのは、ロシア人やポーランド人やドイツ人やユダヤ人だけだ。」子供が抱くこんな「世界苦」をせせら笑う人もいるかも知れませんが、幼い私にとってこの経験は、いつも大きな悩みの種でした。当時は大人というものは何でもできると思っていたので、私はしじゅう自分に言いきかせていました。大人になったら、この害悪をきっとなくしてみせる。」-------引用(マージョリー・ボウルトン・著、水野義明・訳、新泉社、1993年11月1日発行「エスペラントの創始者ザメンホフ」23~24P)------- | ||
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+ | ザメンホフのおかれた言語環境は非常に良好で、当時の教養あるロシア人は三、四ヶ国語は話せるとされていた。父からはフランス語とドイツ語を教えられた。ヘブライ語は母といったユダヤ教の教会で聞き、通りに出ればイディッシュ語が聞こえた。 | ||
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+ | 1873年12月、ワルシャワに移住。 | ||
引用・参考文献 | 引用・参考文献 |
2010年6月14日 (月) 14:22の版
ルドヴィコ・ザメンホフ(1858年12月15日-1917年4月14日)はエスペラントを開発したユダヤ系の医者として知られる。ポーランドで出生したザメンホフの母語はロシア語だが彼は言語に優れておりポーランド語、ドイツ語を流暢に話した。それだけでなく後年フランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語も学んだ。さらにイディッシュ語、イタリア語、スペイン語、リトアニア語にも興味を抱いていた。
ユダヤ人の血筋を持つヘブライ語の言語学者の父と一般人の母(父はユダヤ教の教義は捨てている)の下に生まれた。ザメンホフの生まれた当時のポーランドは帝政ロシアの支配下にあり四つの言語(ロシア語、ポーランド語、ドイツ語、イディッシュ語)を話すユダヤ人のグループに分断されていた。それらの集団が大人はもちろんのこと子供たちまでも石を投げ合ったり、殴りあったり、罵り合ったりして憎しみ合うさまを幼少期からみており母から習った「人間は皆神様の子供だ」という教義に疑いを持った。
「私は、グロドノ県のビアリストクに生まれました。生誕し幼年期をすごしたこの場所が、私の将来の活動方向を決定したのです。ピアリストクには、四つの異なる民族が住んでいました。ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人です。それぞれ言葉が違い、互いに不和反目していました。感じやすい心を持つ人は、どこにもましてこの町で、言語の相違という重荷を痛感します。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、しだいに確信するようになるのです。私は理想主義者として育ちました。人はすべて兄弟だと教えられました。ところが、通りでも広場でも一足歩くたびに、私はいやおうなしに痛感しました、「人間なんていないんだ。いるのは、ロシア人やポーランド人やドイツ人やユダヤ人だけだ。」子供が抱くこんな「世界苦」をせせら笑う人もいるかも知れませんが、幼い私にとってこの経験は、いつも大きな悩みの種でした。当時は大人というものは何でもできると思っていたので、私はしじゅう自分に言いきかせていました。大人になったら、この害悪をきっとなくしてみせる。」-------引用(マージョリー・ボウルトン・著、水野義明・訳、新泉社、1993年11月1日発行「エスペラントの創始者ザメンホフ」23~24P)-------
ザメンホフのおかれた言語環境は非常に良好で、当時の教養あるロシア人は三、四ヶ国語は話せるとされていた。父からはフランス語とドイツ語を教えられた。ヘブライ語は母といったユダヤ教の教会で聞き、通りに出ればイディッシュ語が聞こえた。
1873年12月、ワルシャワに移住。
引用・参考文献
「ルドヴィコ・ザメンホフ」 Wikipedia
「エスペラントの創始者ザメンホフ」 新泉社
HN:いじげん