琉球歴史

出典: Jinkawiki

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2015年7月17日 (金) 18:13の版
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1,琉球王国の誕生と滅亡 1,琉球王国の誕生と滅亡
-12世紀になると沖縄は狩猟採集の時代が終わり、農耕社会が形成された。それに伴い各地には、按司(アジ)と呼ばれる指導者が誕生した。そして、14世紀には、強い力を持つ按司により、3つの勢力が現れ、南部、中部、北部に分断して支配していた。3つの勢力は、それぞれ中国と交易を積極的に行い、経済力を拡大していた。15世紀にはいると、南部の按司・尚巴志(しょうはし)が頭角を現し、北は奄美諸島から南は八重山列島までの琉球諸島を統一した。その後、琉球王国は、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して発展した。また、首里城は、琉球王国の政治、経済、文化の中心であった。1609年、薩摩島津氏の侵攻により、琉球は徳川幕府の下に置かれたが、中国との関係は続いた。つまり、琉球王国は、表向きには中国の支配下でありながら、内では、薩摩藩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していた。+12世紀になると沖縄は狩猟採集の時代が終わり、農耕社会が形成された。それに伴い各地には、按司(アジ)と呼ばれる指導者が誕生した。そして、14世紀には、強い力を持つ按司により、3つの勢力が現れ、南部、中部、北部に分断して支配していた。3つの勢力は、それぞれ中国と交易を積極的に行い、経済力を拡大していった。15世紀にはいると、南部の按司・尚巴志(しょうはし)が頭角を現し、北は奄美諸島から南は八重山列島までの琉球諸島を統一した。その後、琉球王国は、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して発展した。また、首里城は、琉球王国の政治、経済、文化の中心であった。1609年、薩摩島津氏の侵攻により、琉球は徳川幕府の下に置かれたが、中国との関係は続いた。つまり、琉球王国は、表向きには中国の支配下でありながら、内では、薩摩藩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していた。
-だが、19世紀にはいると矛盾が深まるとともに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、危機的な状況に陥った。そして、明治維新により成立した日本政府は、1879年に軍隊を派遣し、首里城から国王の尚泰(しょうたい)を追放した。そして、政府は、沖縄県の設置を宣言した。+だが、19世紀にはいると矛盾が深まるとともに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、危機的な状況に陥った。そして、明治維新により成立した日本政府が、1879年に軍隊を派遣し、首里城から国王の尚泰(しょうたい)を追放した。そして、政府は、沖縄県の設置を宣言した。
 + 
 +2,琉球文化
 +琉球は、中国や日本など多くの国と交易を行っていたため、それぞれの文化から影響を受け、琉球独自の文化を作りあげた。琉球文化の中で最も国が力を入れていたというのが、「芸のう」であった。伝統の芸のうは、主に2つに分けられ、「宮てい芸のう」と「民ぞく芸のう」であった。「宮てい芸のう」は、中国からやって来る使いの人たちをもてなす歌やおどりで、首里城を中心に国をあげて厳かに行われていた。一方の、「民ぞく芸のう」は、地方の祭りの時などに行われるもので、人々の気持ちがそのまま表されるものが多かった。他には、「組踊(くみおどり)」という踊りがある。組踊りは、中国からやって来る使者をもてなすためにつくられたもので、歌、舞踊、琉球のことばによる台詞の三つが合わさった音楽である。玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)という人がつくり、1718年に初めて発表された。その後もつくられつづけ、現在70の台本が残っている。
 +3,現在でも残っている琉球文化
 +沖縄の家には、必ず「シーサー」という置物が置かれている。シーサーを置くという文化は、14世紀に中国から伝わり、魔除けの効果を持つ「守り神」とされている。また、毎年、お盆の季節になると、沖縄本島やその周辺の離島で行われる「エイサー」という踊りがある。これは先祖の霊を慰めるための踊りで、各地で若者たちが、太鼓を鳴らしながら「エイサー、エイサー」などとかけ声をかけながら踊る。このように、琉球時代の文化は、今でもしっかりと受け継がれている。

2015年7月18日 (土) 10:20の版

1,琉球王国の誕生と滅亡 12世紀になると沖縄は狩猟採集の時代が終わり、農耕社会が形成された。それに伴い各地には、按司(アジ)と呼ばれる指導者が誕生した。そして、14世紀には、強い力を持つ按司により、3つの勢力が現れ、南部、中部、北部に分断して支配していた。3つの勢力は、それぞれ中国と交易を積極的に行い、経済力を拡大していった。15世紀にはいると、南部の按司・尚巴志(しょうはし)が頭角を現し、北は奄美諸島から南は八重山列島までの琉球諸島を統一した。その後、琉球王国は、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して発展した。また、首里城は、琉球王国の政治、経済、文化の中心であった。1609年、薩摩島津氏の侵攻により、琉球は徳川幕府の下に置かれたが、中国との関係は続いた。つまり、琉球王国は、表向きには中国の支配下でありながら、内では、薩摩藩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していた。 だが、19世紀にはいると矛盾が深まるとともに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、危機的な状況に陥った。そして、明治維新により成立した日本政府が、1879年に軍隊を派遣し、首里城から国王の尚泰(しょうたい)を追放した。そして、政府は、沖縄県の設置を宣言した。

2,琉球文化 琉球は、中国や日本など多くの国と交易を行っていたため、それぞれの文化から影響を受け、琉球独自の文化を作りあげた。琉球文化の中で最も国が力を入れていたというのが、「芸のう」であった。伝統の芸のうは、主に2つに分けられ、「宮てい芸のう」と「民ぞく芸のう」であった。「宮てい芸のう」は、中国からやって来る使いの人たちをもてなす歌やおどりで、首里城を中心に国をあげて厳かに行われていた。一方の、「民ぞく芸のう」は、地方の祭りの時などに行われるもので、人々の気持ちがそのまま表されるものが多かった。他には、「組踊(くみおどり)」という踊りがある。組踊りは、中国からやって来る使者をもてなすためにつくられたもので、歌、舞踊、琉球のことばによる台詞の三つが合わさった音楽である。玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)という人がつくり、1718年に初めて発表された。その後もつくられつづけ、現在70の台本が残っている。 3,現在でも残っている琉球文化 沖縄の家には、必ず「シーサー」という置物が置かれている。シーサーを置くという文化は、14世紀に中国から伝わり、魔除けの効果を持つ「守り神」とされている。また、毎年、お盆の季節になると、沖縄本島やその周辺の離島で行われる「エイサー」という踊りがある。これは先祖の霊を慰めるための踊りで、各地で若者たちが、太鼓を鳴らしながら「エイサー、エイサー」などとかけ声をかけながら踊る。このように、琉球時代の文化は、今でもしっかりと受け継がれている。


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