フローレンス・ナイチンゲール

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人物略歴

1820年5月12日、トスカーナ大公国フィレンツェで裕福な家庭に生まれ、フローレンスと名付けられ、幼少期には多彩な教育を受けてきた。しかし、その後、慈善訪問をしていた際に目の当たりにした貧しい農民の悲惨な生活から人々に尽くす仕事がしたいと思い始める。1851年、ドイツにある病院付学園施設カイザースヴェルト学園に滞在する。1853年、看護師になるために、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院に就職。翌年の1854年3月クリミア戦争が勃発し38人の看護師と共に従軍。1860年、ナイチンゲール看護学校を設立。1901年、完全に目が見えなくなる。1907年、女性初の有功勲章を受章。1910年8月13日、永眠。


看護師としての生涯

 1851年、精神を病んだ姉の看護をするという口実でドイツの病院付学園施設カイザースヴェルト学園に滞在し、その後看護師を夢見てリズ・ハーバードに紹介されたロンドンの病院に就職するも、その病院の給料は無給であった。その分の生活費に関しては理解者の一人である父が出していた。一方で、母と姉は就職に反対していたため険悪となる。のちにナイチンゲールは婦人病院長となり、イギリス各地の病院の状況を調べ、当時の看護師は病人の世話をするただの召使いとしか考えられておらず、専門知識の必要もないと思われていたので、そこで専門的な教育を施した看護師の必要性を訴える。

 1854年にクリミア戦争が勃発し、戦争の前線で負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを知ると自ら看護師として従軍することを決めた。その年の11月、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護師14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かう。しかし、その兵舎病院はとても不衛生であった。また現地の軍医長官は看護師団の従軍を拒否した。そこで、看護師団はまずどこの管轄にもなっていない便所掃除から始め、病院内で認められるようになっていった。その後、対抗勢力には無言の圧力になった。このようなことから、ナイチンゲールはスクタリ病院の看護師の総責任者となり、活躍する。その後の調査によって、着任後の死亡率は上昇するが、衛生状態は改善する。改善したことによって、1855年2月には死亡率は42%だったが、4月には14.5%、5月には5%にまで減少した。それまでの死者は大多数が傷ではなく、不衛生な環境による感染症が原因だと推測された。その働きぶりによって、彼女は「クリミアの天使」と呼ばれた。また、夜回りを欠かさなかったことから「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。1856年3月30日パリで平和条約が締結され、4月29日にクリミア戦争が終結する。7月16日に、最後の患者が退院する。ナイチンゲールは国民的英雄と祭り上げられていたが、それを好まなかったためにスミスという名の偽名を使用して帰国する。その年の11月、ナイチンゲールチームは病院の状況を分析し、多くの統計資料を作成し、改革のための各種委員会にそれを提出した。このことからナイチンゲールは統計学の先駆者ともされている。

 そして、赤十字国際委員会の創始者のひとりである、アンリ・デュナンがナイチンゲールを高く評価し、2年に一度、50人以内の人数に対して贈る記念章に名前を残した。

 また、戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院(現在のキングス・カレッジ。ロンドン)の中にナイチンゲール看護学校がつくられ、その学校の校長は病院の婦長であるウォードローバーが当たったが、運営に関してはナイチンゲールも協力した。その後は同様の各種の養成学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護師養成体制が整い始める。

 晩年は、年老いた親の看病にあたる。1880年に母親が亡くなったあとは活動も減り、1890年以降は家で過ごすことが多くなった。

 そして、1910年8月13日に亡くなる。

 彼女自身、看護師として負傷兵に尽くしたのはクリミア戦争に従軍した際の2年間だけであり、その献身的な姿や統計に基づく医療衛生改革で名声を得ることとなった。37歳のときに心臓発作で倒れてからの約50年間はほとんどをベッドの上で過ごし、本の原稿や手紙を書くなどの活動が主となった。


主要な著作

・看護についての著作

 ・カイゼルスウェルト学園によせて(1851年)

 ・女性による陸軍病院の看護(1858年)

 ・看護覚え書(1860年)

 ・インドの病院における看護(1865年)

 ・救貧病院における看護(1867年)

 ・貧しい病人のための看護(1876年)

 ・病院と患者(1880年)

 ・看護婦の訓練と病人の看護(1882年)

 ・病人の看護と健康を守る看護(1893年)

・病院についての著作

 ・病院覚え書(1863年)

 ・産院覚え書(1871年)

・英国陸軍の保健についての著作

 ・英国陸軍の保健(1858年)

 ・インド駐在陸軍の衛生(1863年)

その他にも約150篇ほどの量の著作を残している。


幼少期に受けた教育

・フランス語、ギリシャ語、イタリア語、ラテン語などの外国語

・ギリシア哲学(プラトン)

・数学

・天文学

・経済学

・歴史(イギリス、外国)

・美術

・音楽

・絵画

・英語(英文法、英作文)

・地理

・心理学

・詩や小説などの文学

フランス語、ギリシャ語、イタリア語に関しては姉妹とも読み書き話ができ、ラテン語は聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学んだ。


受賞

・赤十字勲章 (1883年)

・有功勲章(メリット勲章) (1907年)


ナイチンゲール像

ナイチンゲール像は世界に2つ存在する。

・イギリス ロンドン

・日本 兵庫県川西市

ナイチンゲール病棟

ナイチンゲール病棟とは、ナイチンゲールが考えた病院建築である。これは、『病院覚え書』に図面入りで記されている。

・病室は間仕切りなしのワンルーム

・患者はベッド1つにつき、1つの窓がセットとなる

・ベッドは病室の左右にそれぞれ15個ずつ並んでいる

・窓は高い天井まで延びた3層の窓

・一番高い3層目の窓は常時開放し、喚起を行う

また、その覚え書には患者一人の療養空間としてふさわしい面積や、ベッド間の距離、ベッドの高さなどの具体的で理想的な数値が記載されている。ナイチンゲール病棟は、世界中の病院建築に取り入れられ、当時の聖トーマス病院をはじめ、実際の建物として機能している。


参考文献

・日野秀逸 『フロレンス・ナイチンゲール』 労働旬報社 1990

・モニカ・ベイリー,マリアン・J・ブルック,ロイス・モンティロ 他著 平尾真智子,小澤道子,坪井良子,助川尚子,麦沼裕子,竹内喜 他訳 『ナイチンゲールとその時代』 うぶすな書院 2000

・エドワード・クック 著 中村妙子 訳 『ナイティンゲール その生涯と思想Ⅰ』 時空出版 1993

・ヒュー・スモール 著 田中京子 訳 『ナイチンゲール 神話と真実』 みすず書房 2003

・小玉香津子 『ナイチンゲール』 清水書院 1999

ハンドル名:Y.K


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