ロバート・オウエン5

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目次

人物

1771年5月14日、ウェールズ・ニュータウンで馬具商と金物商を営む父ロバートと母アンとの間に生まれる。7人兄弟の下から2番目。苦しい生活ののち、産業革命時に紡績機械を使って成功し、1800年に、当時イギリス有数の紡績業者D・デールの娘と結婚して、大工場の支配人となった。人間の性格は環境によるものと信じ、ニュー・ラナークの自分の工場で労働時間を少なくし、労働者の住宅をよくし、日用品を安く売る売店を開き、保育園を作るなどして環境を整えた。理想的な社会主義を夢見てアメリカに土地を買い、共同社会の共産村を作りましたが失敗してしまう。その後、自分も労働者になって労働者の生活改善につとめ1833年の工場法の制定に努力し、労働組合や協同組合の創始者となり、社会主義を理想としながら活動した。著書に「新社会観―人間性格形成論―」、「ニュー・ラナーク住民への講演」などがある。

性格形成学院

労働意欲を内発的に引き出すためには、人間の性格そのものを教育によって変えて、永続的に労働意欲を向上させるというのが一つの手であるとされた。そのために 工場の敷地内に学校を設立するとの計画が構想された。数々の弊害を乗り越え、1816年に幼・小児を対象とした「性格形成学院」が設立され、彼の思想を教育の場で実験する機会が訪れた。そこでは、新しい教授法が採用された。まず、褒めたり叱ったりする賞罰をすべて否定する方法が実践された。暗記教育が一般的な教育界では画期であった。オウエンの教育方法にあれこれと欠点があるとしても、根本的な教育改革を目指すものであったことは疑うべくもない。スコットランドの山間地帯であるにも関わらず、この学校は多くの人の注目を集め、見学者の数はかなりのものだった。のちにロシアの皇帝となるニコライ大公、オーストリアのヨハネスとマクシミリアンの両皇子、各国の大使、数々の主教を含む聖職者、貴族や学者たちがここを訪れ、オウエンの名が広く海外の王室や上流階級の間までに知られるようになった。

性格形成の原理

『新社会観』は、環境決定論に基づいて展開した最初の著作である。この中の、「性格形成の原理」には、「どのような一般的な性格でも、最善の性格から最悪の性格まで、最も無知な性格から最も啓蒙された性格まで、どんな社会にも、世界全体にさえも、適切な手段をもちいることのよってあたえることができる。そしてこの手段は、ほとんどが世事に影響力を持っている人たちの支配、統制下にある。」(『新社会観』白井訳103項)とある。どのような性格も適切な手段によって形成できると環境決定論が述べられている。人間の性格は、その人自身の意思と努力によってではなく、環境と教育によって形成されると考える。それゆえ、労働階級が貧困、無知、労働苦、道徳的退廃など悲惨的な状況にいるのは、自分が自己改善の努力をしない結果だという「自己責任」の原則を批判する意図が込められている。

工場法

オウエンの児童保護運動の影響もあり、1833年の「工場法」では、最低雇用年齢が9歳になり、13歳児未満の児童の最長労働時間は9時間になり、児童の夜間労働が禁止された。 また、工場で働くすべての児童に対して、1日2時間の通学が義務付けられた。この工場法は、児童を「大人のミニチュア」ではなく、発達途上にある未熟な者というように捉え、 新しい児童観を培うものとなっていった。


参考

作成者S


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