アフガン戦争11

出典: Jinkawiki

(版間での差分)
2015年7月31日 (金) 15:38の版
Daijiten2014 (ノート | 投稿記録)

← 前の差分へ
最新版
Daijiten2014 (ノート | 投稿記録)

1 行 1 行
-イギリスとアフガニスタンの間で起こった戦争のことをさす。19世紀に入るとアフガニスタンは中央アジアからのロシアの南下とイギリスによるインド防衛の接点となり、3次にも及ぶアフガン戦争はイギリスの干渉で起こった。+朝鮮戦争は第二次世界大戦後に行われた戦争である。ポツダム宣言を受諾した日本は朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。その後、すぐに朝鮮建国準備委員会が立ち上げられ、朝鮮民主主義人民共和国として建国宣言がなされる。そして独立に向かった準備が進んでいくこととなる。しかしながら、連合軍はこのことを認めず、北緯36度を境とし、南をアメリカ、北をソ連という形で占領することとなる。これを分割領という。この占領の後、南北統一された独立を模索するものの、米ソの冷戦、イデオロギーの対立に巻き込まれ、独立の機会を逃す。北部を占領していたソ連が抗日パルチザンを重用することで北部へと影響力を強めると、これに対してアメリカなどが反発する。また、半島南部で南部を独立すべしという動きがあったことなどから、1948年8月15日に大韓民国が成立し、その直後の9月9日には、朝鮮民主主義人民共和国が成立したことで2国に分かれる事で独立することとなった。その二年後の1950年に北朝鮮軍は韓国へと奇襲を仕掛ける。数日後にソウルを陥落させるなど、北朝鮮の攻撃は続いていった。事態を重く見たアメリカを中心とした自由主義諸国は、国連軍を結成。韓国側へと回った。準備不足から国連軍は苦戦を強いられたが、仁川上陸作戦を機に反撃に転じ、主要都市を次々と奪還するなどしてついに10月末には、中朝国境まで、ラインを引き上げることに成功した。これで南北統一がなされるかと思われたが、そこで中国が参戦し、北朝鮮側の支援にまわった。その後の攻防では一進一退が続くこととなり北緯38度線での膠着状態に陥った。そこで休戦協定の話し合いが設けられ、1953年7月27年に協定が成立した。現在もこの協定は継続中のものである。
- +
-第一次は、1838年から1842年までにわたり行われた。この直前の1837年、ロシア人に指揮されたイラン軍がヘラートを包囲し、イギリス人将校がこの防衛にあたっていた。イギリスはこのロシアの進出に危機感を抱き、権力を握っていたドースト・ムハンマドを退けて、親英的なシュジャー・ウル・ムルクを王位につけようと干渉に踏み切った。1838年2月、進入したイギリス軍が、カブールに進んだ。ドースト・ムハンマド王は逃げ、1839年8月シュジャー・ウル・ムルクが王位についた。しかし、カブールでは反英の反乱が起き、1842年1月イギリス軍はカブールから東方への撤退を決定した。1万余のイギリスならびにインド人兵隊は撤退の際に命を失ったとされている。ジャララバード、カンダハールを保持していたイギリス軍は、カブールを懲罰的に再占領したが、引き揚げざるをえず、1843年イギリスは、抑留していたムハンマドをインドに送ってふたたび統治させた。+
- +
-第二次は、1878年から1880年まで行われた戦争である。ムハンマド王の子のシェール・アリー王が、イギリスに対して不満を持ちロシアに接近した。これに対し、イギリス軍がカブールを占領、そして、アリー王はロシアに援助を求めて逃亡した。アリー王の子であるヤークーブが1879年に王となり、イギリスとガンダマク協定を結んだ。アフガニスタンはこの講和により、インドに領土を割譲し、イギリス使節駐在を認めた。しかし、数ヶ月後、カブールで反英蜂起が起き、使節団が皆殺しにされ、戦争が再開された。イギリスはカブールを奪回したがマイワンドで撃破されて、1880年、ムハンマドの孫アブドゥル・ラフマーンを、外交権をイギリスに譲ること、侵略に対しては援助することを条件に王位につけて撤退した。1901年ラフマーンの死後即位した子のハビーブッラーは、1915年、父がイギリスと取り決めた条約を批准したために、アフガニスタンはイギリスの保護国となった。+
- +
-第三次は、1919年2月、軍部を握ったハビーブッラーの第3子アマーヌッラー・ハーンが即位し、イギリスに敵対して独立を求めたが、空襲を受けると休戦を申し入れ、この年の8月にラワルビンディ条約が結ばれ、独立が正式に承認された。この一連の戦争はここで終結した。+
参考文献 参考文献
- +三野正洋 (1999) 『朝鮮戦争』 光人社
-三野正洋 (1998) 『わかりやすいアフガニスタン戦争』 光人社+神谷不二 (1990) 『朝鮮戦争―米中対決の原形』 中央公論社
- +
-ロドリク・ブレースウェート (2013) 『アフガン侵攻』 白水社+

最新版

朝鮮戦争は第二次世界大戦後に行われた戦争である。ポツダム宣言を受諾した日本は朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。その後、すぐに朝鮮建国準備委員会が立ち上げられ、朝鮮民主主義人民共和国として建国宣言がなされる。そして独立に向かった準備が進んでいくこととなる。しかしながら、連合軍はこのことを認めず、北緯36度を境とし、南をアメリカ、北をソ連という形で占領することとなる。これを分割領という。この占領の後、南北統一された独立を模索するものの、米ソの冷戦、イデオロギーの対立に巻き込まれ、独立の機会を逃す。北部を占領していたソ連が抗日パルチザンを重用することで北部へと影響力を強めると、これに対してアメリカなどが反発する。また、半島南部で南部を独立すべしという動きがあったことなどから、1948年8月15日に大韓民国が成立し、その直後の9月9日には、朝鮮民主主義人民共和国が成立したことで2国に分かれる事で独立することとなった。その二年後の1950年に北朝鮮軍は韓国へと奇襲を仕掛ける。数日後にソウルを陥落させるなど、北朝鮮の攻撃は続いていった。事態を重く見たアメリカを中心とした自由主義諸国は、国連軍を結成。韓国側へと回った。準備不足から国連軍は苦戦を強いられたが、仁川上陸作戦を機に反撃に転じ、主要都市を次々と奪還するなどしてついに10月末には、中朝国境まで、ラインを引き上げることに成功した。これで南北統一がなされるかと思われたが、そこで中国が参戦し、北朝鮮側の支援にまわった。その後の攻防では一進一退が続くこととなり北緯38度線での膠着状態に陥った。そこで休戦協定の話し合いが設けられ、1953年7月27年に協定が成立した。現在もこの協定は継続中のものである。


参考文献 三野正洋 (1999) 『朝鮮戦争』 光人社 神谷不二 (1990) 『朝鮮戦争―米中対決の原形』 中央公論社


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成