フローレンス・ナイチンゲール2

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== ナイチンゲールが残した言葉 == == ナイチンゲールが残した言葉 ==
・看護にひみつは存在しません。よい看護というのはあらゆる病気に共通するこまごまとしたことをやりとげ、ひとりひとりの病人をくわしく観察すること、ただそれだけなのです。 ・看護にひみつは存在しません。よい看護というのはあらゆる病気に共通するこまごまとしたことをやりとげ、ひとりひとりの病人をくわしく観察すること、ただそれだけなのです。
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・いったいなんのために、他人の目、他人の勝手な期待、他人の意見などに悩まされる必要があるのでしょうか。 ・いったいなんのために、他人の目、他人の勝手な期待、他人の意見などに悩まされる必要があるのでしょうか。
 自分のやりたいことをやらないで、他人からいわれるままに生きた人で、優れたこと、有用なことを成しとげた人は、今だかつて誰もいないのです。  自分のやりたいことをやらないで、他人からいわれるままに生きた人で、優れたこと、有用なことを成しとげた人は、今だかつて誰もいないのです。

2015年8月1日 (土) 01:39の版

フローレンス・ナイチンゲール(1820年5月12日 - 1910年8月13日)は、イギリスの看護師で、『人のために生きたい』という強い意志を貫き、現代の看護師に通じる、新しい看護師像を創りだした近代看護教育の母。

目次

略歴

1820年5月12日、イタリアのフィレンツェで一家の次女として生まれる 1842年、リチャード・モンクトン・ミルネスと知り合いになり、貧しさや病気で苦しんでいる人を助ける決意をする 1844年、病院で働くことを密かに計画し、看護の訓練を受けたいと希望するが、家族の大反対にあい、諦める 1846年、家族に内緒で病院や衛生について学ぶ。シドニー・ハーバード戦時大臣と知り合いになる 1850年、母親に内緒で、ドイツのカイザーヴェルト学園にある病院を二週間訪問する 1853年、パリの病院で看護を学ぶ。ロンドンの病院の立て直しに協力する 1854年、シドニー・ハーバード戦時大臣から、看護婦の集団を率いて、クリミア戦争に参加しているイギリス軍の病院に行くように命じられる。イギリス陸軍の補給体制が崩れていることを知り、必要な食料の手配などを全て自分で行う。 1855年、病院の患者の死亡率を、42%から2.2%に下げることに成功する。イギリスでナイチンゲールを応援するためにのナイチンゲール基金が作られ、食料などが届く 1856年、クリミア戦争が終わり、イギリスに戻ると、陸軍病院の改善に努力する 1860年、ロンドンのセント・トーマス病院に、ナイチンゲール看護婦養成学校が開かれる 1870年、イギリス赤十字社を作るための寄付を集める。その働きに対してイギリス、フランス両国から勲章が贈られる 1901年、だんだん見えなくなっていた目が完全に見えなくなる 1910年8月13日、亡くなる

人物

 イギリスの上流階級の家に生まれ、父のウイリアムは、莫大な遺産を受け継いだ大金持ちであった。両親は結婚と同時に、イギリスからヨーロッパ大陸へ新婚旅行に出かける。それもほぼ三年間という長旅であった。その旅行の最中に姉のパーサとナイチンゲールが生まれたのだ。当時のイギリスの上流階級は、働かなくても、土地を貸す代金などで一生暮らしていけたのだ。そういう人達にとっては、三年間の新婚旅行など、そう珍しいことではなかった。フローレンス・ナイチンゲールは、そんな豊かな家に生まれた。  ナイチンゲールはとても興味深い時代に生きた人である。ちょうど、ヨーロッパが近代へと移り変わる時期であったからだ。彼女が生まれる少し前、スティーブンソンが蒸気機関車を完成させ、イギリスに世界最初の鉄道が開通した。その後、モールスによって電信が発明される。世の中が急速に、大きく変わっていった時代にナイチンゲールは生まれた。近代化が進み、世の中が大きく変わり、医学も変わり始め、病院の新しいあり方が求められていた。そこにナイチンゲールが登場し、病院を大きく変える力となった。ナイチンゲールの活動は、看護の教育と実践だけでなく、病院の組織を改革する、病院環境を良くするといったことも行っていた。  ナイチンゲールが登場する以前の病院は、今でいう病院とはかなり違っていた。病気を治すために、医者がいて、治療をする機械があるというのではなく、病気の人、世捨て人、犯罪者など社会に都合の悪い人達を入れておく隔離施設、悪く言うと『社会のゴミ箱』というひどい状態であった。このような時代に、ナイチンゲールは、神のお告げによって自分の使命を知った。つまり、看護婦になって人を助けることだ。しかし、上流階級である彼女の家族では「看護婦になるなんてとんでもない」」と猛反対する。上流階級の若い娘は社交パーティーに出て結婚するのが努めで、職業につくことは考えられなかった。それでも、彼女の意思は強く、挫けることはしなかった。30歳の時、チャンスが巡ってきて、憧れのドイツのカイザーヴェルト学園に訪れることが出来た。ここで看護法について学ぶ。また、クリミア戦争で病院環境の整備と看護を実践し、大きな成果を得た。この経験から、ナイチンゲールの看護に対する情熱の強さ、偉大さが始まっているのだ。  また、クリミア戦争での体験をもとに、イギリス陸軍病院の衛生状態の改革運動や、病院の組織や環境について書いた「病院覚え書き」、「看護覚え書き」を出版した。そして、セント・トーマス病院内に看護学校を開校し、専門的な教育を受けた看護婦たちを世界中に送り出す。近代看護を作り、病院を作り、看護教育を作ったナイチンゲールは、現代の医療の基礎を作った人と言える。ナイチンゲールは才能と情熱にあふれた人であり、そしてそれを努力して生かした人。多くの障害があっても、負けずに、自分の使命を突き進んだ意志の強い人。そして、新しい生き方を貫き、新しい時代を作った女性である。

ナイチンゲールが残した言葉

・看護にひみつは存在しません。よい看護というのはあらゆる病気に共通するこまごまとしたことをやりとげ、ひとりひとりの病人をくわしく観察すること、ただそれだけなのです。

・いったいなんのために、他人の目、他人の勝手な期待、他人の意見などに悩まされる必要があるのでしょうか。  自分のやりたいことをやらないで、他人からいわれるままに生きた人で、優れたこと、有用なことを成しとげた人は、今だかつて誰もいないのです。

参考文献

重兼芳子著『ナイチンゲール』(講談社) 長島伸一著『ナイチンゲール』(岩波ジュニア新書) 監修/長谷川敏彦 学習まんが人物館『ナイチンゲール』(小学館)

ハンドルネーム(サマー)


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