十四か条の平和原則

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2015年8月5日 (水) 22:53の版
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概要

十四か条の平和原則は1918年に出されたものである。この原則が出された背景には、第一次世界大戦がある。この時、アメリカは不本意ながらに交戦国であった。ウィルソン政権は中立を維持しようと最大限の努力をしていた。しかし最終的には連合諸国からの懇願と、ドイツのUボート作戦の再開に対応して、1917年4月に、アメリカは3国同盟諸国に対して宣戦を布告した。しかし欧州では、複雑な秘密協定の網が様々な国を結びつけていた。連合国側も同盟国側も、帝国支配への野望を抱いている中、アメリカはどの協定にも参加せず、ウッドロー・ウィルソン大統領は、恒久的な平和の構築を求め、戦線終結の根拠を探していた。のちに、交戦国に対して戦争の目的を述べるように要求するが、双方の国ともそれを拒絶してしまう。これは、双方の国の目的が領土的な野心に対するも物のためであったからだとされている。そこでついにウィルソンは、1918年1月8日、連邦議会の中でウィルソンの考える公平かつ永続的な平和の基本前提となる原則を公表した。これが「14か条の平和原則」と言われるものである。この原則は、海洋の自由と開かれた盟約、民族自決の原則を実行する様々な地理的取り決め、そして平和を執行する国際連盟の設立などの基本原則から成り立っている。この中で最も重要な点は、多くの諸国が外交政策の指針は自己の利益だけだと考えていたのに対し、14か条の政策の中では、民主社会の外交政策の基盤は道徳性と倫理でなければならないと主張した点である。内容としては、①講和交渉の公開・秘密外交の廃止②海洋の自由③関税障壁の撤廃④軍備縮小⑤植民地の公正な処置⑥ロシアからの撤兵とロシアの政体の自由選択⑦ベルギーの主権回復⑧アルザス=ロレーヌのフランスへの変換⑨イタリアの国境の再調整⑩オーストラリア=ハンガリー帝国内の民族自決⑪バルカン諸国の独立の補償⑫トルコ支配下の民族の自治の保障⑬ポーランドの独立⑭国際平和機構の設立である。この講和提案を受けて、1918年11月11日に停戦が実現し、第一次世界大戦は終結を迎える。翌年に、パリ講和会議がはじまり、ヴェルサイユ条約の成立となった。


参考

http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-fourteenpoints.html

http://www.janis.or.jp/users/ohkisima/rekisi/18181108uirusonn14kajyou.html


ペンネーム:N.A


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