アパルトヘイト政策3
出典: Jinkawiki
2012年8月3日 (金) 16:21の版
アパルトヘイトとは
南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する人種隔離政策のこと。 それまでも数々の人種差別的立法のあった南アフリカ共和国において1948年に法制として確立され、以後強力に推進された。 しかしながら、1980年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの直接的な経済制裁や、当時最大の貿易相手国であった日本に対して国連が非難決議[2]を採決するなどにより経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。その後アフリカ民族会)など、解放勢力との長期にわたる交渉の末に、1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は完全に撤廃された。
南アフリカ共和国はこの政策のため各国から経済制裁を受けたことをはじめ、選手団が1960年のローマオリンピックを最後に1992年にバルセロナオリンピックで復帰するまで近代オリンピックから追放されるなど文化交流分野を含む制裁措置を受けていた。1952年からは毎年国連総会において非難決議が採択され、1961年にはイギリス連邦から激しい非難を受けて同連邦から脱退するなど他国からは絶えず差別的として非難を受け、1973年には国際連合総会で採択された国際条約において人道に対する罪と糾弾されたが、1980年代にいたるまでは他国の非難はアパルトヘイトに影響を及ぼすことはできなかった。
職業
黒人は白人が経営する農園や工場で働き、1970年には平均して白人の工業労働者は黒人の6倍、白人鉱業労働者は黒人の21倍の給料を得るようになっていた。
アパルトヘイト以前から存在した上記の1911年の「鉱山労働法」、1913年「原住民土地法」、1926年の「産業調整法」をはじめとする各種法律によって、黒人には低賃金所得のみがあてがわれ、南アフリカの資本主義は発達した。就業制限に限らず、こうした方針は「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展するべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」という多文化主義による合理的な政策であると主張されていた。