糸川英夫

出典: Jinkawiki

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2015年7月14日 (火) 14:06の版

糸川英夫(いとかわひでお、1912年7月20日 - 1999年2月21日)は、日本の工学者である。ペンシルロケットの開発者であり、また日本の宇宙開発をリードした人であることから、「日本の宇宙開発の父」と呼ばれている。

経歴

 1912年、7月20日、東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)で生まれる。 1935年、青山にある第一東京市立中学校、東京高校を経て、東京帝国大学工学部航空学科を卒業した。中学の時は首席で卒業し、高校のときは三年間学級総代を務めた。教育者の家庭に生まれ、父は小学校の教員だった。航空学科を選んだのは、兄の糸川一郎(東大工学部卒)に「東大でいちばん入試の難しいところはどこですか」と聞いた時、「そりゃお前、航空学科だよ。9人しか入れないし、毎年、各高等学校のナンバーワンがやってくるんだ」と言われたことが理由であった。卒業後は中島飛行機に入社し、戦闘機の設計に関わった。そこでは独学でジェットエンジンを研究した。 1941年、東京帝国大学、第二工学部(千葉市)助教授に就任。 1945年、敗戦により航空機の研究禁止。 1948年、東京大学教授に就任。 1949年、音響工学で博士号取得。 1954年、東京大学生産技術研究所内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及び超音速空気力学)研究班を組織。1955年、AVSA研究班はSR研究班に改組し、ヘビーロケットやカッパロケットを開発した。 1967年、東大を退官し組織工学研究所を設立。これを機に宇宙開発の前線から去った。1976年から1983年まで日本BCL連盟の会長職を引き受け、情報誌の月刊短波の発行に務めていた。シカゴ大学の客員教授やパリにある、ポンゼショセ(国立土木学校)の教授なども歴任した。その後、長野県小県郡丸子町(現上田市)に移り住み1999年2月21日に多発性脳梗塞のため、長野県丸子町の病院にて86歳で世を去った。2003年、M-V-5号機で打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」がサンプルリターンを行った小惑星25143は、糸川英夫にちなんで「イトカワ」と名付けられた。イトカワには、探査機はやぶさが訪れ、調査とサンプルリターンを行った。また、2012年に生誕100周年を記念して内之浦宇宙空間観測所内に糸川の銅像が建立された。



引用 ・http://www.isas.jaxa.jp/j/special/2012/prof.itokawa/ 糸川英夫誕生100年記念サイト 草柳大蔵『実力者の条件』p.177 1970年 文藝春秋出版

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