ヤヌシュ・コルチャック
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- | ヤヌシュ・コチャックは、今世紀初頭の新しい教育理念の実践をした先駆者であり、その思想は「国連子どもの権利条約」樹立の道を開いた。1959年の国連での「子どもの権利に関する宣言」、および1989年に国連で制定された「子どもの権利条約」(日本は1994年に批准)には、コルチャックが子どもの立場から主張してきた「子どもの権利の尊重」の理念が深く影響しているといわれている。 | + | ヤヌシュ・コルチャックは、今世紀初頭の新しい教育理念の実践をした先駆者であり、その思想は「国連子どもの権利条約」樹立の道を開いた。1959年の国連での「子どもの権利に関する宣言」、および1989年に国連で制定された「子どもの権利条約」(日本は1994年に批准)には、コルチャックが子どもの立場から主張してきた「子どもの権利の尊重」の理念が深く影響しているといわれている。日本でも1994年に批准している。<br> |
==参考文献== | ==参考文献== | ||
- | 近藤二郎『決定版 コルチャック先生(平凡社ライブラリー) 』 平凡社 2005年6月<br><br>HN:ODO | + | 近藤二郎『決定版 コルチャック先生(平凡社ライブラリー) 』 平凡社 2005年6月<br> |
+ | 塚本智弘『コルチャック 子供の権利の尊重』 子どもの未来社 2004年6月<br><br>HN:ODO |
最新版
ヤヌシュ・コルチャック
目次 |
人物
ユダヤ系ポーランド人
孤児院院長、小児科医、児童文学作家
医師で作家でもあるヤヌシュ・コチャックは、ナチスの抑圧が吹き荒れるワルシャワでユダヤ人孤児、次にポーランド人孤児のための「ぼくたちの家」の建設をした。その2カ所では子供の議会、子供の法律、子供ら自身による指導委員会野設置など、迫害を受けているという社会の中で、彼は平等と信頼を柱とする教育が実践された。
ナチスの手により孤児ら4000人の絶滅収容所移送が決定されるその日、彼はナチス政権の通告に対し抵抗する意思を見せたので、施設の子供らとともにトレブリンカ絶滅収容所のガガス室に連行され生涯を終えた。
来歴
1878年 ロシア領ポーランド王国の裕福なユダヤ人弁護士の家庭に生まれる。本名はヘンリク・ゴールドシュミット。
1896年 ワルシャワ大学医学部に入学。
1898年 ペンネーム「ヤヌシュ・コルチャック」で戯曲「いかなる道を」でバデレフスキー賞を獲得。
1904年 日露戦争。当時ポーランドはロシア占領下のため、ロシア軍の軍医として中国東北部へ従軍。
1906~1908年 ベルリン・パリ・ロンドンへ医学留学。
1911年 ユダヤ人孤児施設「僕たちの家 ドム・シュロット」を設立。
1914年 再びロシア軍の軍医としてウクライナ前線へ従軍。
1919年 ポーランド人孤児院「僕たちの家 ナシュ・ドム」をマリナ・ファルスカ女史と設立。
1920年 今度はソビエト対ポーランド戦争にてポーランド軍の軍医として従軍。
1934~1936年 移住を考えパレスチナをこの期間に二度訪問する。
1940年 ドイツ軍により、ワルシャワ・ゲットーに施設の孤児とともに収容。
1942年 ワルシャワ・ゲットーからトレブリンカ絶滅収容所に孤児とともに移送。その後の記録が途絶える。
主な著書
教育書 「子どもを愛するには」 1918年
童話 「王様マチウシ一世」「孤島の王様マチウシ」1923年
子ども向け本 「小さなジャックの破産」 1924年
子ども向け本 「もう一度子供になれるなら」 1925年
子供向け新聞「Maly Przegland」(小評論) 1926年
功績
ヤヌシュ・コルチャックは、今世紀初頭の新しい教育理念の実践をした先駆者であり、その思想は「国連子どもの権利条約」樹立の道を開いた。1959年の国連での「子どもの権利に関する宣言」、および1989年に国連で制定された「子どもの権利条約」(日本は1994年に批准)には、コルチャックが子どもの立場から主張してきた「子どもの権利の尊重」の理念が深く影響しているといわれている。日本でも1994年に批准している。
参考文献
近藤二郎『決定版 コルチャック先生(平凡社ライブラリー) 』 平凡社 2005年6月
塚本智弘『コルチャック 子供の権利の尊重』 子どもの未来社 2004年6月
HN:ODO