第二次世界大戦7

出典: Jinkawiki

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2016年7月27日 (水) 10:24の版

目次

第二次世界大戦

概要

日本・ドイツ・イタリア・等の枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連等の連合国との間で行われた世界規模の大戦争であり、主要参戦国では、戦争遂行のために人的・物的資源の全面的動員が行われた。両陣営合計で49か国が参戦し動員兵力数が1億1000万人と人類史上最大の戦争となった。戦闘機や戦車などの著しい発達に加えて長距離ロケットや原子爆弾などの核兵器も使用され、史上最初の原子爆弾の投下を含む都市への爆撃、強制的な過酷労働により民間人及び捕虜の多くが命を失った。また、ドイツは自国及び占領国においてユダヤ人などに対する組織的殺害を戦争と並行して進めており、これらをホロコーストと呼ぶ。イギリス・フランスの対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と拡大し、最初は日本が連戦連勝を続け1942年にセイロン沖海戦やアメリカ本土空襲、オーストラリア空襲を行い優勢だった。しかし、オーストラリアやイギリス海軍が対峙したソロモン諸島の戦いでは日本が敗北した。その後コロンバンガラ島沖海戦などで日本が勝利するが、しだいに連合国がノルマンディー上陸作戦を成功させ、マリアナ沖海戦に勝利するなど優位に立ち、1943年にドイツがスターリングラードの戦いで敗戦して以降イタリア、1945年にドイツ。そして日本が無条件降伏し、終結した。

年表

1929年・イギリス総選挙で労働党初めての第一党となる 1930年・ロンドン海軍軍縮会議 1931年・ヨーロッパの恐慌深刻化が始まる ・柳条湖事件が満州事変に発達 ・国際連盟理事会、満州問題調査委員会設置決議案を可決 1932年・オタワでイギリス帝国関税会議が開かれ、ブロック経済化が進む     ・上海事変が起こる     ・満州国建国宣言     ・リットン報告書発表 1933年・ヒトラー、政権を獲得     ・ルーズベルト、アメリカ大統領に就任 ・ヒトラー、国際連盟脱退を宣言 ・国際連盟、リットン報告書を承認、満州国不承認を決議 ・日本、国際連盟を脱退 ・上海で反戦、反ファシズムの大会が開かれる 1934年・ソ連、国際連盟に加入     ・満州帝国が成立     ・日本、ワシントン海軍軍職条約破棄を通告 1935年・仏ソ、相互援助条約に調印 1936年・イタリア外相がベルリン訪問、独伊枢軸結成     ・日本、ロンドン軍縮会議脱退を通告     ・二・二六事件が起こる     ・日独防衛協定に調印 1937年・フランス首相、人民戦線綱領の停止を声明 ・日独伊防共協定成立 ・日中戦争の始まり ・中ソ不可侵条約調印 ・イタリア、国際連盟を脱退 ・日本軍、南京を占領、南京虐殺事件を起こす 1938年・ドイツ、オーストラリアを併合     ・ミュンヘン会議が開かれる     ・日本、国家総動員法を公布     ・日本の近衛首相が東亜新秩序建設を声明 1939年・ドイツ、ポーランドにダンツィヒ割譲を要求

      ・ノモンハン事件が起こる
      ・日本、国民徴用令を公布、総力戦体制進む

・独ソ不可侵条約及び、秘密議定書調印 ・アメリカ、日米通商航海条約廃棄を通告 ・ドイツがポーランドに侵入。英仏がドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まる ・ソビエト、フィンランド戦争が始まる 1940年・ドイツの北欧作戦が始まる

      ・日本、武力行使を含む南方進出を決定
      ・イタリア、英仏に宣戦布告
      ・日独伊三国軍事同盟調印される
      ・フランス降伏
      ・イギリスの本土空襲が始まる

1941年・アメリカで武器貸与法成立

      ・日ソ中立条約調印
      ・独ソ戦争始まる
      ・英ソ、相互援助協定調印

    ・ドイツ軍、モスクワ攻撃を開始。また、モスクワでソ連軍が反撃に転じる     ・日本軍、インドシナ南部に進駐

      ・日本軍、真珠湾を攻撃し太平洋戦争が始まる
      ・英米、対日宣戦布告
      ・独伊、アメリカに宣戦布告

1942年・連合国26か国、ワシントンで共同宣言に調印     ・日本軍、マニラを占領。続いてシンガポール、ラングーンを占領     ・ミッドウェー海戦 1943年・イタリア、連合国に無条件降伏 1944年・ソ連軍、レニングラードを開放     ・マリアナ沖海戦     ・レイテ沖海戦     ・米英、原爆の対ソ秘匿と対日投下を協定     ・サイパン基地のB29、東京を初空襲 1945年・ヤルタ会談が開かれる     ・ルーズベルト死後、トルーマン昇任     ・サンフランシスコで国際連合創設会議     ・広島、長崎に原爆投下される     ・ソ連軍、ベルリンを占領しドイツが無条件降伏     ・ポツダム宣言発表     ・中ソ友好同盟条約成立     ・日本が無条件降伏し第二次世界大戦が終わる     ・国際連合が正式に成立     ・インドネシア、共和国として独立を宣言     ・フランスで制憲議会選挙、共産党第一党となる     ・ベトナム民主共和国の独立宣言     ・天皇が人間宣言

第二次世界大戦の始まり

1919年3月にヒトラーは、スラブ諸国への領土拡大計画のためにチェコスロバキアの解体をしたのにも関わらずさらに残りの領土を支配下におさめた。これによって英仏の態度がそれまで西欧との協力を重視していたソ連の不信感を強める作用をした。チェコの危機の間にチェコと同盟を組んでいたソ連はチェコを援護することを公言していたがミュンヘンに招かれず危機の解決はソ連を除いて行われた。結果、ソ連はドイツの膨張を前に国際的な独立感を深めた。ソ連共産党第18回大会が開かれたが、そこでスターリンは英仏両国の日独伊三国への侵略を助長し英仏を激しく非難した。チェコ解体後ヒトラーはポーランドに対し(第一次世界大戦後、ドイツ領を横切りポーランド回路地帯を作りその出口であるダンツィヒを自由港とした)回路地帯とダンツィヒの割譲という要求をした。ポーランドの防衛にはソ連の協力が必要不可欠なため英仏ソ三国が相互援助条約を結び東欧諸国に軍事的保障を与えることに同意した。そして8月23日に独ソ不可侵条約が結ばれポーランドの防衛問題は白紙に戻り、ドイツがポーランドに攻め入るための障害がなくなった。また、それまで最大の敵とされてきたドイツとソ連の提携は国際共産主義運動に大きな衝撃をもたらした。ポーランドではドイツとの開戦が口にされた。ヒトラーは同じドイツ人にポーランドの放送局を襲撃させてポーランド人に殺させ、ヒトラーはポーランドの国境侵略に対する防衛という口実を作り上げた。9月3日、イギリス、フランスがドイツに宣戦し第二次世界大戦が始まった。ドイツは空撃と戦車を使ったがポーランド側には戦車はなく空軍もドイツの攻撃によりほぼ撃破された。このように戦争らしい戦争は2週間で終わり、ポーランド政府は国外に亡命した。しかし首都では市民大衆による抵抗が続いており9月末までドイツ軍と戦った。これが第二次世界大戦における民衆的抵抗の先駆けといってよい。 

日本とアジア

「大東亜共栄圏の実態」

日本が真珠湾を攻撃するとルーズベルトは議会に対し、日本だけでなくドイツ、イタリアにも宣戦することを求めた。これによりルーズベルトは対日戦ばかりでなくヨーロッパの戦争にも参戦することができた。1942年、東条首相は議会演説で「大東亜共栄圏建設」の方針を明らかにしたがその実態は日本を中心とする新たな植民地体制に他ならなかった。これらの地域に対し、フィリピンとビルマには独立を与えるが、それいがいは日本の領土とし、重要資源の供給地として支配するのが日本の方針であった。フィリピンでさえも多くの鉱山、工場などが日本の手で経営された。マライやインドネシアでは、経済資源の収奪のほか大量の労働力の徴用、動員が行われた。これら労働力の収奪はその対価が支払われた場合でも、一片の紙片にすぎない軍表に寄ったため、激しいインフレーションを招き、現地の民衆の生活を困窮させた。さらに東南アジアの貿易は、日本の占領によって本国との結びつきを絶たれて混乱していた上に、連合国潜水艦の通商破壊により、日本への輸出も輸入も途絶したため、経済は混乱し、民衆の貧困はいっそう増大した。1944年から1945年にかけてインドシナでは飢餓による死者200万人を出したが、この数字が占領下の過酷な現実を何よりも雄弁に物語っている。

民衆の抵抗

各地では、民衆の占領に対する抵抗運動が発展してくる。抵抗を通じて戦後の独立の基礎となったところもあった。現地軍当局が民族主義的指導者に開放の約束を与えて占領に協力させたが、日本の許容したもの以外は厳しい態度であった。ミッドウェー海戦で日本が大敗して以来、太平洋における日米海軍の関係は逆転した。その後、ガダルカナル島で行われた戦いにも大敗し、アメリカを中心とする連合軍は圧倒的な空軍力を背景に太平洋上の日本の拠点を次々に孤立させていった。やがてB29による本土空襲も始まり、ほとんどの日本都市が壊滅するという大きな被害を受けるまでになった。一方ビルマでもインド侵略を狙ったインパール作戦が開始された。しかし、連合国軍の反撃にあい退却を余儀なくされ、これによりビルマ戦線の日本軍は崩壊した。またフィリピンでも米軍との戦いで日本軍は海軍兵力と航空機の大部分を失った。そして4月には沖縄本島上陸が開始された。

日本とアメリカ

三国軍事同盟の現実

太平洋戦争が始まってすぐにイギリスのアジア最大の拠点であるシンガポールが没落した。イギリスがシンガポールに東洋最大の軍港を完成したのは日中戦争の二年目である。日本が中国大陸で本格的な戦争に踏み切ったことは軍港の重要性を一層高めたはずだが軍港が完成した時、この斜陽の大帝国はここに常駐させるべき大艦隊を持たなかった。シンガポールの大海軍基地としての実力は発揮されないまま、日本軍により占領されたのである。日本とドイツの同盟は一種の便宜結婚のような性格を持っていた。ドイツは日本との同盟に対英戦への協力とアメリカを牽制する効果を期待していた。日本は三国同盟締結に先立ち、南進を始めていた。しかし、ドイツはこの南進を苦い気持ちで眺めていたことがヒトラーの反応が示している。三国同盟の成立は第二次世界大戦の一方の陣営である枢軸陣営の確立を物語るものであったが、実質的な面では必ずしも軍事同盟としてうまく機能しなかった。

日本とソ連、アメリカ

日本国内で三国同盟を推進したのは陸軍と、第二次近衛内閣の外相である松岡であった。松岡は三国同盟にソ連を加えてアメリカに圧力を加え日中戦争と日本の南方進出を有利に解決しようとしていた。松岡は、ドイツ・イタリアを訪問する途中にモスクワによりスターリンと交渉した。松岡とスターリンの会談の結果、日ソ中立条約が調印された。1940年、大統領選挙で初めて選出され、「子供たちを戦場に送らない」を公約した大統領選挙に先立ちイギリスの戦争努力に直接援助を加えていた。イギリスを援助してドイツの西進を拒むことはアメリカの国益にもなったからである。イギリスが武器を購入する資金の枯渇に悩むようになると、ルーズベルトは武器を実質的に無料で貸し出す武器貸与法を議会に提出して成立させる。この法律は後にはイギリス以外のすべての反ファシズム諸国に適用されアメリカは、第二次世界大戦における「民主主義の兵器廠」となっていくのである。

対日戦略のABC協定

太平洋方面においても、日本の中国侵略拡大や南方進出、三国同盟締結などはアメリカを警戒させ日米関係を緊張させた。アメリカは日本に対する重要な戦略物資の供給国だったので経済圧迫によって日本の行動を抑止しようとした。1939年に日米通商航海条約破棄を通告し、日本への重要物資の供給をいつでも打ち切れるようにした。当時アメリカには致命的である石油の輸出を止めようという声も上がったが、ルーズベルトは踏み切らなかった。石油産地であるオランダ領インドネシアへの日本の攻撃を誘発するのを恐れたからであった。これは、経済的圧迫だけでは日本を抑えるのには限界があることを示していた。そこで、1941年にアメリカは軍事的手段による対抗を真剣に考えざるを得なくなった。しかしアメリカは一方では太平洋戦争でドイツの脅威に対処しながら、太平洋で日本の行動を抑えなければならなかった。この解決策として3月に英米の軍部の間に成立した諒解がABC協定である。ABC協定はヨーロッパ、太平洋に重点を置く作戦計画であった。日本との戦争が始まっても、アメリカの戦略主正面は太平洋方面であるとされ、カロリン諸島・マーシャル諸島を限界として防衛戦略をもって日本に対処することとされた。ABC協定は日本に対するうえでの軍事的限界をも示している。そこでアメリカとしても、軍事以外での手段で日本との懸念の平和解決を図らざるを得なくなった。日本海軍から野村吉三郎を起用した。野村はかつてルーズベルトと親交があり、米国から信頼の厚い人物であった。野村大使の着任によって、やがてワシントンで日米交渉が開始され、なお平和への道が模索されるのであった。

被害

全体での死亡者の数は8000万人前後と言われている。これは、第一次世界大戦の1.5倍である。また、民間人の被害者数は5000万人前後、軍人の被害者数は2500万人前後である。そして、第二次世界大戦の特徴として、アジアが大きな犠牲を払っていることや死者のうちに占める民間人の割合がとても高いことが挙げられる。また戦争のための戦費はアメリカが3410億ドル、ソ連1920億ドル、イギリス940億ドルなど総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。敗戦国だけではなく、連合国側も多大な被害があった。レイナードという場所が、900日にも及びドイツ軍に包囲されたが、その後ドイツ軍を撃破した際に死者は120万に上ったがそのうち70万人近くが餓死した。このことからも分かるように、戦争全体においても餓死した人数が多いのがわかる。また、敗戦したドイツは東プロセインやシュレジェン地域を完全に損失しこれにより戦前の国土の25%を失うこととなった。

戦後

1946年1月、第一回の国連総会が開かれ、国際連合が正式に発作した。この特色としては、加盟国に平等に発言権と表決権を持つのではなく大国が指導権をにぎる安全保障理事会を中心に行おうとしたことである。つまり、場合により国連軍を編制し侵略者に武力制裁によって平和を維持できる強力な権限を与えたが、米ソ英華仏のうち一か国でも反対すい問題である。トルーマン大統領は原子力の秘密と国際管理の問題について否定的な意見を示した。国連の第一回総会の第一号決議では、原子力の国際管理と原子兵器の廃止などを実現する為、原子力委員会を置くことが決められた。しかし、アメリカなど高度の軍事力を維持するために原子兵器の開発がすすめられるところもあった。 また、いちはやくドイツに降伏したフランスが5大国の一つに数えられた原因として戦時中の抵抗運動が評価されたと考えられる。戦時中の抵抗勢力を基盤とした新政権の活躍により、200万人の党員を擁して議会第一党となった。そして、イギリスではポツダム会談中に行われた総選挙で労働党が圧勝するなど、西欧各国では社会主義勢力の躍進がめざましかった。これら諸国にとって最大の問題は経済の復興であったが、そこには様々な困難があった。繁栄の根源であった植民地で独立や自立の傾向が強まったこと、戦争による荒廃と並んで、これら戦後の新しい要因によって戦後復興ははかどらず各国で重要物資の不足やインフレーションが国民生活を圧迫した。このような中で二つの方向が次第に明らかになる。一つは経済的に西欧が連合していこうとする考え方でのちにはヨーロッパ共同体に発展する。もう一つは、経済的に優越したアメリカの援助に依存して復興を成し遂げようする動きであったが、この動きは米ソ関係の悪化と結びついて、やがて世界の東西への分裂、いわゆる冷戦を加速する動きになっていく。


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