南北問題20

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南北問題20

目次

南北問題

先進国の大半が北半球、発展途上国の大半がその南に位置していることから東西の冷戦問題に対比する形で初めて使用されて以来、一般に使われるようになった。 人口比では世界の15.7%にすぎない先進工業国が世界のGNPの75.5%を示している。 地球の北半休では、経済が発展し工業がさかんな国である先進国が多く、アメリカ合衆国やEU諸国、日本などが当てはまる。 一方、その南では、経済発展の水準が先進国に比べて低く発展の途上にある発展途上国が多く、アフリカや東南アジア、中南米などの国があてはまる。これを南北問題という。



南北問題の登場と背景

アメリカ資本主義の絶対的優位を反映して再編された戦後世界経済秩序が、トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランによる東西冷戦構造の確立と、西ヨーロッパ諸国の復興という、過渡的戦後体制に終止符を打って、IMG=GATT体制としてその本格的点展開を開始しようとした時期に、この新しい秩序は最初の転換期を迎えることになった。 この転換期を画する重要なメルクマールこそ、一方における民族独立運動の高揚植民地体制の崩壊であり、他方におけるアメリカの絶対的優位体制の破綻→ドル危機の顕在化である。南北問題は、かかる時代的文脈のなかで、60年代初頭に歴史の表舞台へ登場することになる。しかし、留意する点は植民地体制の崩壊=旧植民地諸国の独立が南北問題を歴史の表舞台へ押し上げられてきた直接的要因ではないという。旧植民地諸国の独立はかれら諸国の自発的国民経済建設の切り拓きはしたが反帝国主義・反植民地主義のスローガンがただちに国内経済建設の指針とはなりえないということは分かっている。まして、「非同盟・中立主義」がストレートに資本主義的世界経済からの離脱を展望していた訳ではない。 したがって、新興独立諸国は否応無しに既存の世界経済秩序の枠内に身を置きつつ、植民地的経済建設という困難な課題と取り組むことになるが、その際の、既存経済秩序のもつ無差別的 「相互主義」の原則の強要と植民地経済構造から、自律的経済構造への転換という質的要求との間の矛盾、この矛盾こそがこれまで世界経済秩序の受動的構成体としてのみ扱われてきた国々の諸問題を南北問題という形を通して歴史の表舞台へと押にし上げてきた基本的要因にならない。それゆえ、南北問題を新植民地主義対反帝・反植民地主義という政治的シェーマ化によって、把握することはけっして許されるべきではない。 かかる南北問題の力関係的図式からは、南の側の不統一・多様化植民地主義の勝利としてしか把握されないことはいうまでもない。重要なことは、南北問題を規定する基本的要因たる前述矛盾が、南の側の内部構造にどのくらい作用を及ぼし、それがまた、南北関係にいかなる反作用を及ぼしていくかという視覚からの南北問題へのアプローチである。


南北問題の問題点

モノカルチャー経済(単品経済)への依存。つまり、1次産品が主に輸出品目のための利益が上がらない。 発展国との大きな差はここにあり、先進国では、加工し製品を生産し、加工貿易を行っていて、収益性が高くなっている。 さらに、交易条件悪化論の理論的根拠とされている需要側の要因に対して供給側の要因を重視する見解も唱えられている。 一次産品の対製造品交易条件の傾向的悪化の法則というものが理論的に実証うるか否かは別問題として、無差別・多角的自由貿易の拡大を言ったGATTが他方では先進資本主義諸国の農業保護主義を例外的に認めている という現実のもとで進行した一次産品輸出の停滞と国際収支の悪化という事態は、進まぬ工業化への苛立ちと南の側を一次産品輸出に特化させざるをえない構造に追い込んだ北側先進資本主義諸国に対する責任追及とに支えられて、既存世界経済秩序に対する修正・再編要求として発展していくことになった。



国際舞台における南北問題の登場

1964年UNCTAD(国連貿易開発会議)加盟国194カ国・第1回目はスイスのジュネーブで行われ、スローガンとして「援助よりも貿易を」を掲げている。 さらにUNCTADの初代事務局長であるプレビッシュがプレビッシュ報告を提出。主な内容としては先進国がGNP1%の経済援助の実施、発展途上国の製品の関税を引き下げる一般特恵関税の拡大、1次産品の価格の安定が入っている。しかしその実行は63年のGATT閣僚会議のおける先進国側の部分的譲歩の表明にもかかわらず遅々として進まず、結果としてGATTの限界性に対する認識の深化と南の側の不満の増大をもたらした。他方、かかる南の側の既存世界経済秩序に対する漠然とした不満を東西問題の延長線上における援助問題とし処理・沈静化しようと企ててきた北側先進諸国(主としてアメリカ)の援助戦略が60年代に入り援助の大半を占めていたアメリカの国際収支悪化に伴う援助の頭打ちという状況のもとで、南の側の債務負担の激増による国際収支への圧迫と、貿易ギャップの拡大による南北経済格差の拡大という事態の進行によって破綻をきたしてくるや「援助より貿易を」という要求の浸透は、南の側=第三世界の国連での発言力の増大に支えられて、貿易と開発問題の討議の舞台を国連の場へと押し上げることになった。


南北問題への取り組み 1961年ケネディ(アメリカ)大統領が「国連開発の10年」を国連総会で提案では、南の側の不満の先取りと貿易問題を国連の場へ持ちこもうとする南の側の不満と先取りと貿易問題を国連の場へ持ち込もうとする南の側の動きに対するものだった。 しかし、南の側からは非同盟諸国が中心となって国連総長の招請による「南北貿易問題を討議するための国際鍵」の開要求決定議案が出され、あくまで国連の場での貿易問題解決の姿勢が貫かれた。かかる決議案が第二委員会で通過するや、北側先進諸国とくにアメリカが執行な妨害工作に乗り出してきたことは当然である。その最大の理由は、先進資本主義諸国の不均等発展の結果惹起された戦後世界経済秩序の部分的再編という重要な課題に直面している時代にIMF=GATT体制からはみでるような、新しい原理が樹立されることを恐れたことにある。 IMF=GATT体制として編成された戦後世界経済秩序を律する基準原則に対して、第三の世界の要求を反映した新しい原理が導入・付加されることだけは何とかしたかった。 そのためには、低開発諸国の関税・貿易の点での要求はGATTに開発金融問題はIBRDをはじめとする既存国際金融機関に吸収させなければならなかった。積極的、消極的の相互はあれ、国連の場での「貿易と開発に関する国際会議」の開催を引き延ばしたかった北側先進諸国の工作は、第三世界の政治的覚醒を促し続けてきた非同盟・中立諸国の政治的圧力の徒労に終わる。 1961年OECD(経済協力開発機構)の下部組織であるDAC(開発援助委員会)の設定するガイドラインに沿って加盟先進国が実施する経済援助。援助の仕方としては、2種類あり、贈与(無償資金協力・技術協力)と、借款(貸し付け)がある。しかしグラント・エレメント(贈与相当分)が25%以上でなければいけない。理由は途上国の返済による負担の増加を防ぐためだ。




南北問題の新発展

南南問題とは同じ発展途上国でも、資源(特に石油)保有国(中東の産油国)と非保有国、韓国などのアジアNIEsと呼ばれている新工業国と、サハラ以南のアフリカに残る最貧困(後発発展途上国:LDC)の間の経済格差が拡大し、利害対立が発生している。これを南南問題と呼ぶ。また、 *アジアNIEs(韓国・台湾・香港・シンガポール)



参考文献

南北問題の現代的構造 本多健吉 南北問題と開発教育 田中治彦

                                                                                                                    著者70.k


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