カンボジア王国

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 国防費は277百万ドル日本円で294億6,808万5,106円である。(2014年予算法より)総兵力は約120,000人でこれらは志願兵役制によって集まった。  国防費は277百万ドル日本円で294億6,808万5,106円である。(2014年予算法より)総兵力は約120,000人でこれらは志願兵役制によって集まった。
==経済== ==経済==
- 2004~2007年の4年間、10%を超える高い経済成長を遂げた。しかし、サブプライムローン問題に端を発した世界同時不況の影響により2009年、成長率は0.1%にまで落ち込んだ。しかし、翌年2010年には6.1%まで回復し、2011年以降は7%にまで回復した。+ 2004~2007年の4年間、10%を超える高い経済成長を遂げた。しかし、サブプライムローン問題がきっかけとなり世界同時不況が起こった。その影響により2009年、成長率は0.1%にまで落ち込んだ。しかし、翌年2010年には6.1%まで回復し、2011年以降は7%にまで回復した。<br>
 インフレ率は石油価格低迷と食品価格の安定により2015年は平均1.1%と低水準となった。経常収支及び財政収支は慢性的な赤字である。しかし、堅調な縫製品等の輸出品、建設業、サービス業及び海外直接投資の順調な増加により、今後も安定した経済成長が見込まれる。<br>  インフレ率は石油価格低迷と食品価格の安定により2015年は平均1.1%と低水準となった。経常収支及び財政収支は慢性的な赤字である。しかし、堅調な縫製品等の輸出品、建設業、サービス業及び海外直接投資の順調な増加により、今後も安定した経済成長が見込まれる。<br>
 通貨はリエルを使用。主要産業は農業、工業、サービス業である。  通貨はリエルを使用。主要産業は農業、工業、サービス業である。
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 カンボジアの主な世界遺産はアンコールの遺跡群、プレアヴィヒア寺院である。アンコールの遺跡群は有名なアンコール・ワットを含んでいる。  カンボジアの主な世界遺産はアンコールの遺跡群、プレアヴィヒア寺院である。アンコールの遺跡群は有名なアンコール・ワットを含んでいる。
==歴史== ==歴史==
-9~13世紀 現在のアンコール遺跡地方を拠点にインドシナ半島の大部分を支配。<br>+9~13世紀 現在のアンコール遺跡地方を拠点にインドシナ半島の大部分を支配<br>
-14世紀以降 タイさらにベトナムの攻撃により衰退。<br>+14世紀以降 タイさらにベトナムの攻撃により衰退<br>
-1884年 フランス保護領「カンボジア王国」。<br>+1884年 フランス保護領「カンボジア王国」<br>
-1953年 カンボジア王国としてフランスから独立。<br>+1953年 カンボジア王国としてフランスから独立<br>
-1970年 ロン・ノルら反中親米派、クーデターによりシハヌーク政権打倒。<br>+1970年 ロン・ノルらアメリカのバックアップを受け、クーデターによりシアヌーク政権を打倒<br>
-    王制を廃しクメール共和制に移行。<br>+    王制廃止<br>
-    親中共産勢力クメール・ルージュ(KR)との間で内戦。<br>+    ポル・ポトを含むシアヌークらがロン・ルノらと内戦を起こす(カンボジア内戦)<br>
-1975年 KRが内戦に勝利し、民主カンボジア(ポル・ポト)政権を樹立。<br>+1975年 ポル・ポトらが内戦に勝利し、民主カンボジア(ポル・ポト)政権を樹立<br>
-    同政権下で大量の自国民虐殺。<br>+    同政権下で大虐殺<br>
-1979年 ベトナム軍進攻でKR敗走、親ベトナムの「カンプチア人民共和国」<br>+1979年 ベトナム軍進攻でポル・ポト政権敗走<br>
-    (プノンペン(ヘン・サムリン)政権)擁立。<br>+    親ベトナムの「カンプチア人民共和国」(プノンペン(ヘン・サムリン)政権)擁立<br>
-    以降、プノンペン政権とタイ国境地帯拠点の民主カンボジア三派連合<br>+    以降、プノンペン政権と三連合(ポル・ポトらの民主カンボジアに王党(シハヌーク)派・共和(ソン・サン)派が合体)の内戦<br>
-    (KRの民主カンボジアに王党(シハヌーク)派・共和<br>+1991年 パリ和平協定<br>
-    (ソン・サン)派が合体)の内戦。<br>+1993年 国際連合カンボジア暫定統治機構の監視下で制憲議会選挙<br>
-1991年 パリ和平協定。<br>+    王党派フンシンペック党勝利により、新憲法で王制復活<br>
-1992年 国連カンボジア暫定機構(UNTAC)活動開始<br>+    ラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人首相制連立政権<br>
-    (1992~93年、日本初の国連PKO参加。)<br>+1997年 首都プノンペンで両首相陣営武力衝突<br>
-1993年 UNTAC監視下で制憲議会選挙、王党派フンシンペック党勝利。<br>+    ラナリット第一首相失脚<br>
-    新憲法で王制復活。ラナリット第一首相(フンシンペック党)、<br>+1998年 第二回国民議会選挙<br>
-    フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人首相制連立政権。<br>+    第一次フン・セン首班連立政権<br>
-1997年 首都プノンペンで両首相陣営武力衝突。ラナリット第一首相失脚。<br>+1999年 上院新設(二院制へ移行)<br>
-1998年 第二回国民議会選挙。第一次フン・セン首班連立政権。<br>+2004年 第二次フン・セン首班連立政権発足<br>
-1999年 上院新設(二院制へ移行)。ASEAN加盟。<br>+    シハヌーク国王引退、シハモニ新国王即位<br>
-2003年 第三回国民議会選挙。<br>+2008年 第三次フン・セン首班連立政権発足<br>
-2004年 第二次フン・セン首班連立政権発足。<br>+2013年 フン・セン首相首班政権発足<br>
-    シハヌーク国王引退、シハモニ新国王即位。WTO加盟。ASEM参加決定。<br>+
-2006年 上院議員選挙<br>+
-2008年 第四回国民議会選挙。第三次フン・セン首班連立政権発足。<br>+
-2012年 第二回上院選挙。ASEAN議長国。(二回目)<br>+
-2013年 第五回国民議会選挙。フン・セン首相首班政権発足。<br>+
==ポル・ポト政権== ==ポル・ポト政権==
- ポル・ポトは共産主義者であった。彼は専門学生時代に、フランスに留学しそこで左翼思想に目覚め、政治について学び、政治関連の論文を書くなど政治活動に没頭していた。そして、独裁政治を行った。命令に対し抵抗したものは厳しい拷問の対象となり強制収容所へと送り込まれた。そして、社会的に不要なものとして次々と殺害された。知識人(文字が読める、教員、医者など)も対象となり虐殺された。虐殺の犠牲者数は正確には判らないが、ある推計では3年9か月で150万前後という犠牲者が出たといわれている。大虐殺により医者が不足していた。政府は、政府関係者の子弟であった11才~15才の字も読めないような子どもに、ろくな医療関係の教育も受けさせずに医者や看護師、薬剤師などの職に就かせた。当時の病死者の相当部分が彼らのいい加減で怪しげな施療により亡くなったと言われている。ポル・ポト政権のこのような政策や大虐殺に国民は皆、恐れていた。<br>+ ポル・ポトはゲリラ名であり本名はサロト・サル。彼は専門学生時代に、フランスに留学しそこで左翼思想に目覚め、政治について学び、政治関連の論文を書くなど政治活動に没頭していた。<br>
 + 1976年、全面的な共産化政策を展開し、独裁政治を行った。命令に対し抵抗したものは厳しい拷問の対象となり強制収容所へと送り込まれた。そして、社会的に不要なものとして次々と殺害された。知識人(文字が読める、教員、医者など)も対象となり虐殺された。虐殺の犠牲者数は正確には判らないが、ある推計では3年9か月で150万前後という犠牲者が出たといわれている。大虐殺により医者が不足していた。政府は、政府関係者の子弟であった11才~15才の字も読めないような子どもに、ろくな医療関係の教育も受けさせずに医者や看護師、薬剤師などの職に就かせた。当時の病死者の相当部分が彼らのいい加減で怪しげな施療により亡くなったと言われている。ポル・ポト政権のこのような政策や大虐殺に国民は皆、恐れていた。<br>
 厳しい拷問を国民に対して行い、大虐殺に関与していたであろうポル・ポトは1998年にジャングルの中で死去。ポル・ポトの死は未だに他殺なのか、自殺なのかそれとも病死なのか全くわかっていない。また、大虐殺の真相もわかっていない。ポル・ポトの死によって事実がわからないままになっている。  厳しい拷問を国民に対して行い、大虐殺に関与していたであろうポル・ポトは1998年にジャングルの中で死去。ポル・ポトの死は未だに他殺なのか、自殺なのかそれとも病死なのか全くわかっていない。また、大虐殺の真相もわかっていない。ポル・ポトの死によって事実がわからないままになっている。
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参考サイト<br> 参考サイト<br>
[外務省](http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cambodia/data.html 2016.07.27)<br> [外務省](http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cambodia/data.html 2016.07.27)<br>
-[世界史の窓](http://www.y-history.net/appendix/wh1603-078.html 2016.07.27)<br>+[世界史の窓 ポル=ポト](http://www.y-history.net/appendix/wh1603-078.html 2016.07.27)<br>
 +[世界史の窓 カンボジア内戦](http://www.y-history.net/appendix/wh1603-075.html 2016.07.31)<br>
参考文献<br> 参考文献<br>
富山泰著 『カンボジア戦記民族和解の道』中公新書1064 中央公論社 (1992)<br> 富山泰著 『カンボジア戦記民族和解の道』中公新書1064 中央公論社 (1992)<br>

2016年7月30日 (土) 18:10の版

目次

一般事情

面積:18.1万㎢(日本の約1/2)
人口:14.7万人
首都:プノンペン
民族:人口の90%カンボジア人(クメール人)
言語:カンボジア語
宗教:仏教(一部少数民族はイスラム教)

政治体制・政府

政体:立憲君主制
元首:ノロドム・シハモニ国王(2004.10即位)
国会:上院(任期6年)、国民議会(下院)(任期5年)の二院制
首相:フン・セン(人民党党首)

外交・国防

外交基本方針

 中立・非同盟。近隣国をはじめとする各国との平和共存を目指す。国際社会からの援助と投資の取り付けを行っている。

軍事力

 国防費は277百万ドル日本円で294億6,808万5,106円である。(2014年予算法より)総兵力は約120,000人でこれらは志願兵役制によって集まった。

経済

 2004~2007年の4年間、10%を超える高い経済成長を遂げた。しかし、サブプライムローン問題がきっかけとなり世界同時不況が起こった。その影響により2009年、成長率は0.1%にまで落ち込んだ。しかし、翌年2010年には6.1%まで回復し、2011年以降は7%にまで回復した。
 インフレ率は石油価格低迷と食品価格の安定により2015年は平均1.1%と低水準となった。経常収支及び財政収支は慢性的な赤字である。しかし、堅調な縫製品等の輸出品、建設業、サービス業及び海外直接投資の順調な増加により、今後も安定した経済成長が見込まれる。
 通貨はリエルを使用。主要産業は農業、工業、サービス業である。

GDP

 名目GDPは約177億ドル日本円で約1兆8,437億5,000万円であり、一人当たりGDPは1,140ドル日本円で11万8,750円である。

主要貿易相手国

輸出:アメリカ(23%)、イギリス(9%)、ドイツ(8%)、日本・カナダ(7%)
輸入:タイ(28%)、中国(22%)、ベトナム(16%)、香港・シンガポール(6%)

世界遺産

 カンボジアの主な世界遺産はアンコールの遺跡群、プレアヴィヒア寺院である。アンコールの遺跡群は有名なアンコール・ワットを含んでいる。

歴史

9~13世紀 現在のアンコール遺跡地方を拠点にインドシナ半島の大部分を支配
14世紀以降 タイさらにベトナムの攻撃により衰退
1884年 フランス保護領「カンボジア王国」
1953年 カンボジア王国としてフランスから独立
1970年 ロン・ノルらアメリカのバックアップを受け、クーデターによりシアヌーク政権を打倒
    王制廃止
    ポル・ポトを含むシアヌークらがロン・ルノらと内戦を起こす(カンボジア内戦)
1975年 ポル・ポトらが内戦に勝利し、民主カンボジア(ポル・ポト)政権を樹立
    同政権下で大虐殺
1979年 ベトナム軍進攻でポル・ポト政権敗走
    親ベトナムの「カンプチア人民共和国」(プノンペン(ヘン・サムリン)政権)擁立
    以降、プノンペン政権と三連合(ポル・ポトらの民主カンボジアに王党(シハヌーク)派・共和(ソン・サン)派が合体)の内戦
1991年 パリ和平協定
1993年 国際連合カンボジア暫定統治機構の監視下で制憲議会選挙
    王党派フンシンペック党勝利により、新憲法で王制復活
    ラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人首相制連立政権
1997年 首都プノンペンで両首相陣営武力衝突
    ラナリット第一首相失脚
1998年 第二回国民議会選挙
    第一次フン・セン首班連立政権
1999年 上院新設(二院制へ移行)
2004年 第二次フン・セン首班連立政権発足
    シハヌーク国王引退、シハモニ新国王即位
2008年 第三次フン・セン首班連立政権発足
2013年 フン・セン首相首班政権発足

ポル・ポト政権

 ポル・ポトはゲリラ名であり本名はサロト・サル。彼は専門学生時代に、フランスに留学しそこで左翼思想に目覚め、政治について学び、政治関連の論文を書くなど政治活動に没頭していた。
 1976年、全面的な共産化政策を展開し、独裁政治を行った。命令に対し抵抗したものは厳しい拷問の対象となり強制収容所へと送り込まれた。そして、社会的に不要なものとして次々と殺害された。知識人(文字が読める、教員、医者など)も対象となり虐殺された。虐殺の犠牲者数は正確には判らないが、ある推計では3年9か月で150万前後という犠牲者が出たといわれている。大虐殺により医者が不足していた。政府は、政府関係者の子弟であった11才~15才の字も読めないような子どもに、ろくな医療関係の教育も受けさせずに医者や看護師、薬剤師などの職に就かせた。当時の病死者の相当部分が彼らのいい加減で怪しげな施療により亡くなったと言われている。ポル・ポト政権のこのような政策や大虐殺に国民は皆、恐れていた。
 厳しい拷問を国民に対して行い、大虐殺に関与していたであろうポル・ポトは1998年にジャングルの中で死去。ポル・ポトの死は未だに他殺なのか、自殺なのかそれとも病死なのか全くわかっていない。また、大虐殺の真相もわかっていない。ポル・ポトの死によって事実がわからないままになっている。


参考サイト
[外務省](http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cambodia/data.html 2016.07.27)
[世界史の窓 ポル=ポト](http://www.y-history.net/appendix/wh1603-078.html 2016.07.27)
[世界史の窓 カンボジア内戦](http://www.y-history.net/appendix/wh1603-075.html 2016.07.31)
参考文献
富山泰著 『カンボジア戦記民族和解の道』中公新書1064 中央公論社 (1992)
山田寛著 『ポル・ポト<革命>史虐殺と破壊の四年間』 株式会社講談社 (2004)

ハンドルネーム:へのへのもへじ


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