両替商

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2008年12月22日 (月) 03:02の版

商品経済が繁栄した江戸時代において、幕府は金座・銀座・銭座を設け、金貨や銀貨、銭貨を鋳造したので、三種の貨幣の間に両替を必要とする動きが始まった事から両替商が生まれるきっかけとなった。

貨幣制度の整備を負うところが大きく、徳川家康が貨幣銀貨鋳造所を金座・京橋に作った事によって入府以来の経済中枢作りの企図が明らかなものとなる。 しかし、消費都市の物流の繁栄の速度に比べて通貨制度の方はそれほど成熟しなかった。 17世紀以降、幕府によって幣制は何度も変更されるが、いずれも煩雑なものばかりであった。

江戸時代の通貨は先ほどの通り、金・銀・銭の三貨であり、早くから商法が発達した上方では商取引に銀を中心とする銀遣いの伝統があった。 江戸においては金遣いである。この東西で流通制度が異なる事によって、金銀相場が変動する状況下で、市中の銀行の機能の役割を果たすのが町の両替商であった。

両替商には様々な規模があり、江戸では本両替と呼ばれるのは富俗商人クラスであり、金銀を主として扱い、貸し付けや為替業務を行う。 いわゆる上方からの下り荷の為替手形の決済や、諸藩の送金為替などを扱うのである。 これとは別に、金・銀・銭の三貨を扱うのが銭両替、別名脇両替である。そのうち、資力が乏しい両替商は、単に銭の両替で手数料の切り賃をもらう。

「両替はもと金銀座に於て取扱いたるより両替商も自ら金銀座の附近に起りし…」

金座の近くに本両替商、銀座の付近には新両替商ができる。近世初期、承応(1652~55)の頃の江戸の両替商はこの日本橋界隈だけであった。 これが次第に増え、享保3年(1718)に江戸の商業発展に従って「両替商の定員を六百人と定めたる」ほどの数となる。 この内、本両替は16人とされている。数の上では銭両替が圧倒的に多く、小売業の副業として、その売上銭を利用しての両替稼業が中心となっていた。まさしく「府下の両替商の多かりしこと知るべし」である。


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