天保の飢饉

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2009年1月7日 (水) 22:53の版

天保の飢饉

飢饉

飢饉とは、農作物が実らず食物が欠乏・不足して、人々が飢え苦しむことであり、食物以外でも必要な物資が著しく不足する場合にいう。飢饉の直接的な原因としては自然災害によると考えられるが、基本的な原因は政治社会経済的体制の問題と関連していて、その歴史や、現われ方については各地域によってさまざまであるといえる。飢饉の発生に重大な関係を有する直接的な原因は、冷害、干ばつ、長雨、日照り、風水害、虫害(ウンカやバッタなど)、地震、火山の噴火など自然災害による凶作に基づく。農業技術がまだ発達してなく、生産力の低い段階であるほど、自然条件の変動による影響が大きいと考えられる。しかしながら、原因の一つでもある政治社会経済的な問題として、為政者の厳しい政策が飢饉をより激化させてきたということも、飢饉を考えていく上では重要な意味を持つ

天保の飢饉

天保の飢饉は1833(天保4年)~1839年の7年間にわたり発生した飢饉で、寛永・享保・天明に続く江戸4大飢饉の一つである。寛永の飢饉を除いて江戸3大飢饉の一つとも言われる。その主な原因としては洪水や冷害などの相次ぐ異常気象による。この飢饉は全国的に広がり、特に奥羽の被害は大きかったとされている。この前兆としては、1818年~1830年に既に冷害や水害、疫病の流行が続出していたという。被害はまず東日本を中心として不作が続き、奥州に大洪水そして関東に大風雨が発生した。平年作の年もあったものの、1835年には東北と関東地方で凶作となり、1836年には中国と九州地方にまで拡大した。その後は少し回復を見せたが、虫害や疫病などが続きまた凶作となり、惨状は拡大していったとされる。これにより、多くの餓死者が出て、また米価の急騰が起こったために百姓一揆や打ちこわしが頻繁に起きた。1837年の大塩平八郎の乱もこの飢饉のさなかに起きた。幕府は御救小屋(おすくいごや)を江戸市中21箇所に設けて、5800人を収容したという。この他にも救済策として米の給与、酒造の制限、小売値段の引き下げ、囲い米の放出や隠米の禁止等行ったが、十分には機能しなかった。自然災害として始まった天保の飢饉は、社会の内部で作り出されていった諸矛盾を一層拡大させていき、幕藩体制を根底から揺さぶったとされる。


参考文献 http://100.yahoo.co.jp/detail/ 日本史用語集 山川出版 http://www.tabiken.com/history/doc/M/M241L100.HTM


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