明智光秀

出典: Jinkawiki

(版間での差分)

2009年1月30日 (金) 00:06の版

 明智光秀は41歳で織田信長につかえはじめたが、それ以前の経歴はわかっていない。優れた才能によって信長の信頼を受け、信長と将軍足利義昭との結びつきをはかった。信長に信頼されたのが羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉である。さまざまな知恵をめぐらし、戦いに勝ったので、信長は猿と呼んで秀吉をかわいがった。


 明智光秀は優れた戦略と政治力によって、近畿各地、越前などで戦を勝利に導き、44歳で近江(滋賀県)の坂本城主となる。さらに丹波国(兵庫県・京都府)で戦い続け、5年かかってこれを平定する。丹波一国の城主も引き受けることになる。

 1582年、信長は、中国地方を支配していた毛利氏との戦いを秀吉を助けるため、光秀に中国地方への出陣を命じる。明智光秀の軍勢1万3000は、丹波の城を出発し、京都へ進む途中、兵士たちは光秀から「敵は本能寺にあり」と告げられる。中国地方の毛利氏ではなく、そのとき本能寺にいた信長が戦いの相手となった。

 片腕と思っていた光秀の裏切りに、信長はおどろき怒りつつ、燃える炎の中で切腹した。光秀はこのあとすぐに信長の子信忠も自殺させ、信長の城安土城に入場する。光秀が安土城で税金の免除などの政治をはじめたころ、最大のライバル秀吉は毛利氏と和睦。兵を京に送っていたが、光秀はこれを知らなかった。

   京都の山崎で秀吉の軍に敗れ、味方につくと思った武将たちに裏切られ、坂本城にひきあげる途中、光秀は農民のやりに倒れる。12日だけの天下であった。


参考文献

『小学歴史人物』 赤尾文夫  旺文社

『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂 


  人間科学大事典

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