大久保利通

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台湾については、1871年に琉球の島民の船が台湾に漂流し、54人が台湾原住民に殺害された。当時の琉球は、日清両国の統治下にあった。日清修好条約の批准のために、清を訪れた外務卿の副島種臣は、台湾・琉球問題の解決に謀ろうとするが、清は台湾の原住民を自国の統治の範囲外としたので、日本はそれを理由に台湾の出兵を企てた。 台湾については、1871年に琉球の島民の船が台湾に漂流し、54人が台湾原住民に殺害された。当時の琉球は、日清両国の統治下にあった。日清修好条約の批准のために、清を訪れた外務卿の副島種臣は、台湾・琉球問題の解決に謀ろうとするが、清は台湾の原住民を自国の統治の範囲外としたので、日本はそれを理由に台湾の出兵を企てた。
1874年、大久保利通と大隈重信は、台湾出兵を決定し、陸軍中将であった西郷従道に出兵を命じた。しかし国内では、佐賀で前参議の江藤新平を中心に反乱(佐賀の乱)が勃発していたため、木戸孝允の反対により、台湾出兵は中止となった。 1874年、大久保利通と大隈重信は、台湾出兵を決定し、陸軍中将であった西郷従道に出兵を命じた。しかし国内では、佐賀で前参議の江藤新平を中心に反乱(佐賀の乱)が勃発していたため、木戸孝允の反対により、台湾出兵は中止となった。
-ところが、西郷は出兵を強行し、牡丹社などを平定した。+ところが、西郷は出兵を強行し、台湾の牡丹社などを平定してしまう。
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 +これに対し、大久保利通は全権として清と交渉し、清に台湾出兵の正統性を認めさせ、補償金を支払わせた。
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2009年1月30日 (金) 13:16の版

目次

幕末の動き

幕末から明治初期に活躍した政治家であり、木戸孝允・西郷隆盛とあわせて、「明治維新の三傑」と呼ばれている。

江戸時代末期の若年は、薩摩藩尊王攘夷グループのリーダーとして、1859(安政6)年、大老井伊直弼襲撃を計画したが、未遂に終わる。しかしこれを機に、薩摩藩主の島津久光の側近に抜擢され、公武合体論に転向する。1862年、島津久光の公武合体・幕政改革運動に参加し、一橋慶喜を将軍後見職につけ、松平慶永を政治総裁職につける。 1864年、幕府と薩摩の関係が悪くなると、西郷隆盛と組んで反幕運動を展開し、幕府を追い詰める。さらに1868年、岩倉具視と連携をして、王政復古を実施、明治政府を成立させる。


版籍奉還

大久保利通は、明治政府を樹立させるとまずは木戸孝允と版籍奉還を推進する。 1868年、幕政改革として藩士を一律に「士族」と称することとし、藩主と藩士との君主・主従関係を制度から廃止した。これにより藩の実態は急激に変化し、近代的な集権国家への移行を進めていった。 大久保利通・木戸孝允ら明治政府が目指したのは、明治政府を幹とし、藩や県が幹から伸びる枝であるような、中央集権国家の一刻も早い創立であった。 1869年6月17日についに版籍奉還が実現する。

その後、鹿児島にいた西郷隆盛を政府に迎え入れ、1871年に西郷の指導のもと廃藩置県が行われ、明治政府は日本全土の統治体系を整える。


岩倉使節団の派遣と留守政府の外交問題

廃藩置県から1か月後、大隈重信参議から条約改正交渉のため、欧米への使節派遣が発議される。この後、欧米諸国を訪問し、各国と条約改正の交渉をするため、また各国の諸制度の視察・調査などを目的とした岩倉遣外使節団を派遣する。岩倉使節団は特命全権大使に岩倉具視、副使は大久保利通の他に、伊藤博文、木戸孝允、山口内芳が任命された。 岩倉使節団はまず、アメリカと交渉し、不平等条約の全面改正を要求するが、まだ日本の近代国家体制が不十分であったため、アメリカ側はこれを受け入れなかった。しかし、岩倉使節団が欧米諸国の制度を視察し、学習する機会を得たことは、日本の近代化に大きく貢献した。

岩倉使節団が欧米諸国を視察している間、国内の政府(留守政府)が抱えていたのが、日本を取り巻く近隣の国々との外交問題である。これは樺太・朝鮮・台湾の問題が挙げられる。


樺太

樺太は、ロシアと日本の間で領土が定まっておらず、ロシア人と日本人が雑居していたため、1872年にロシアと交渉が行われた。 この交渉で日本は、代償を得る代わりに樺太を手放し、その3年後1875年荷、「千島・樺太交換条約」を結んだ。しかし、この北方領土は現在ロシアに占領されており、現政府の外交問題として残っている。 


征韓論と明治6年の政変

朝鮮国に対しては、明治政府成立以来、新たな近代的な国際関係を結ぼうと交渉を続けてきたが、鎖国体制をとっていた朝鮮国は、日本の交渉を拒否し続けてた。この朝鮮国の態度を武力をもって圧力をかけ、打破しようという発議がなされた。岩倉使節団が渡米中である1873年に、西郷隆盛を中心に、征韓論が高まったが、帰国した岩倉具視・大久保利通・木戸孝允によって、これは阻止された。このため、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣らや、その他多くの征韓論派の参議が辞任した。この政府の激変を「明治6年の政変」という。


台湾出兵

台湾については、1871年に琉球の島民の船が台湾に漂流し、54人が台湾原住民に殺害された。当時の琉球は、日清両国の統治下にあった。日清修好条約の批准のために、清を訪れた外務卿の副島種臣は、台湾・琉球問題の解決に謀ろうとするが、清は台湾の原住民を自国の統治の範囲外としたので、日本はそれを理由に台湾の出兵を企てた。 1874年、大久保利通と大隈重信は、台湾出兵を決定し、陸軍中将であった西郷従道に出兵を命じた。しかし国内では、佐賀で前参議の江藤新平を中心に反乱(佐賀の乱)が勃発していたため、木戸孝允の反対により、台湾出兵は中止となった。 ところが、西郷は出兵を強行し、台湾の牡丹社などを平定してしまう。

これに対し、大久保利通は全権として清と交渉し、清に台湾出兵の正統性を認めさせ、補償金を支払わせた。



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