レフ・セミョーノビッチ・ヴィゴツキー

出典: Jinkawiki

2009年8月6日 (木) 23:55 の版; 最新版を表示
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 レフ・セミョーノビッチ・ヴィゴツキーは、1896年11月5日、現在の白ロシア共和国の都市オルシャで生まれた。障害児教育において新しい考え方を提唱した人物である。早熟で非凡な才能の持ち主であり、後に「心理学におけるモーツァルト」トも称されたヴィゴツキーが、心理学の研究に携わったのは、大学卒業の年から数えたとしてもわずか17年に過ぎないが、この短期間に彼は驚くほど生産的に数々の後世に残る優れた業績を多方面にわたって生み出した。そして、モスクワに出てきて本格的に心理学の研究を始めたそのときから晩年に至るまで、終始一貫して熱心に取り組んだ研究分野が「障害児の発達と教育の専門的研究」なのである。

ヴィゴツキーは、障害の構造を一次的障害と二次的障害とにわけ、教育の可能性が最も大きいのは一次的障害への対策ではなくて、二次的障害への対策であることを強調した。それまでの障害児教育は、目が見えない、耳が聞こえないといった障害を補償するための感覚運動的訓練や教育にもっぱら力を入れていて、より高次の精神活動の教育を後回しにしていたものを逆転させたのである。

文学青年としての出発

ヴィゴツキーが幼年・少年時代をどのような家庭環境の中で育ったのかは明らかではないが、後に、貴族の子弟が通うギムナジヤに入ることから考えて、おそらく経済的には恵まれた家庭で育ったと推定できる。彼が1905年頃にゴメル・ギムナジヤへ入学するが、その時期は日露戦争、ロシア第一革命と国外的にも国内的にも緊張の高まった時期である。1905年1月の「血の日曜日」事件以来、革命運動が盛んになり、各地において工場労働者のみならず、教師、学生などもストライキをもって革命に参加した。当時、ゴメル・ギムナジヤにおいてもストライキ委員会が組織され、「集会の自由」「教会参拝の非義務化」などの教育要求を掲げ、果敢な闘争を展開している。

 この第一革命も失敗に終わり、それに続く反動的な政情の中で、ヴィゴツキーは1913年、ゴメル・ギムナジヤを卒業した。同年モスクワ大学法学部に入学し、同時にシャニャフスキー人民大学歴史=哲学部で学んでいる。在学中は文学に非常に興味をもっており、1915年の下書と1916年の原稿『シェクスピアのデンマークの王子ハムレットの悲劇』があることもそれを証拠付けている。この文学への関心は強く、1929年の暮れから翌年の初めにソビエトを訪れ、実際にヴィゴツキーに会った森徳治は、ヴィゴツキーの思い出を次のように記している。

 「ヴィゴツキーは、大の演劇愛好家であったらしく、私に会った最初の言葉は、『私は今世界の三大名優を知っている。ロシアのスタニスラフスキー、ドイツのモイシ、それから日本の左団次である。私は日本の歌舞伎がモスクワで上演された一週間、毎日欠かさずに観劇した。本当に素晴らしかった』という挨拶であった。」

心理学者としてのヴィゴツキー

 ヴィゴツキーは高次心理活動の研究のために小さな実験室をつくり、そこでの研究をもとに、1922年の第一回ソビエト心理学者大会において研究報告を行なった。この報告が心理学者一般の関心をひき、ヴィゴツキーは1924年、コルニーロフ教授の指導するモスクワ心理学研究所に招かれた。若き心理学者ヴィゴツキーがこの心理学研究所に入所したということは、単に心理学的研究が他よりも際立っていたからという理由だけではない。それは、科学としてのソビエト心理学の方向を定める上での決定的な命題、つまりマルクス主義を基礎とする心理学の確立という命題を、その研究の中に含んでいたからである。

 精神神経学大会での『反射学的、心理学的研究の方法論』という発表が注目を引き、研究所の研究生として招かれたのであるが、初歩の研究生としてよりは指導的な独立した研究者であることが明らかになった。1926年には、ヴィゴツキーが自ら創設した心理学研究室での実験を基礎に、『教育心理学』という著作を出版した。大部分の権威ある心理学者たちがイ・ペ・パブロフ(1849~1936)の条件反射学説と心理学との間に何ら関係を見出せないでいるときに、この著者においてすでにヴィゴツキーは、条件反射に関する学説が新しい心理学を構成するための基礎でなければならないことを提起している。

 『教育心理学』によって、ヴィゴツキーは心理学者として重要な列に加わるようになった。1929年には、高等教育機関と研究機関の改革問題審議のために教育人民委員部に設置された国家学術会議の委員として、また、雑誌『心理学』『小児医学』等の編集委員として、そして多くの大会、代表者会議、協議会、委員会の欠くべからざる参加者として、一連の研究機関の活動の方向を決定するのに多くの貢献を成したといわれる。

欠陥学者としてのヴィゴツキー

 エリ・エス・ヴィゴツキーが欠陥学の分野に初めて登場するのは、1924年のことである。直接的には、1924年1月3日~10日に行なわれた「第二回全ロシア精神神経学大会」での彼の発表が、欠陥学の分野においても注目を引いたと考えられる。革命後、欠陥学の分野でも社会主義社会建設に合致した科学の創造ということが大きな課題であった。しかし、1920年の「子どもの欠陥性、浮浪性、犯罪性との闘いのための第一回活動家大会」、1921年の「子どもの欠陥性との闘いのための全ロシア代表者会議」などにおいても、その問題の解決への糸口は見出せなかった。

 そのような状況の下、ヴィゴツキーは1924年、教育人民委員部未成年者社会的権利保護部に招かれ、身体欠陥児教育課に関係するようになった。1923年後半頃より、子どもの浮浪、障害の問題に携わっている関係者の間で、障害児の保護、教育の状況が著しく貧困であるということが明らかになってきた。それを解決すべく、1924年の暮れに、「未成年者の社会的権利保護第二回大会」が予定された。ヴィゴツキーは大会の準備のために論文と資料集『盲児、聾啞児、知能遅滞児教育の諸問題』の編集にあたった。そこでヴィゴツキーは、革命後の特殊教育の分野において、いまだ障害児の教育に対する社会主義的アプローチが試みられていないことを指摘している。つまり、障害児の問題を主に身体的欠陥、心理的欠陥として考え、社会的問題として考えていないということを指摘しているのである。

 また、ヴィゴツキーは、この「未成年者の社会的権利保護第二回大会」において、『身体的欠陥児の教育原理』という題で発表を行なった。彼が示した一連の論文の中での主張は、彼自身の障害児観を初めて体系立てて示したものであり、また、その後の欠陥学の進むべき筋道を決定した極めて重要なものであった。その主な主張は次のようなものであった。

(1) 障害児の教育を狭い生物学的アプローチ(感覚訓練、精神整形学など)に求めるのではなく、社会的補償に基盤を置く社会的教育に求めるべきである。

(2)

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