ザメンホフ2

出典: Jinkawiki

2010年6月14日 (月) 15:03 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

ルドヴィコ・ザメンホフ(1858年12月15日-1917年4月14日)はエスペラントを開発したユダヤ系の医者として知られる。ポーランドで出生したザメンホフの母語はロシア語だが彼は言語に優れておりポーランド語、ドイツ語を流暢に話した。それだけでなく後年フランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語も学んだ。さらにイディッシュ語、イタリア語、スペイン語、リトアニア語にも興味を抱いていた。

ユダヤ人の血筋を持つヘブライ語の言語学者の父と一般人の母(父はユダヤ教の教義は捨てている)の下に生まれた。ザメンホフの生まれた当時のポーランドは帝政ロシアの支配下にあり四つの言語(ロシア語、ポーランド語、ドイツ語、イディッシュ語)を話すユダヤ人のグループに分断されていた。それらの集団が大人はもちろんのこと子供たちまでも石を投げ合ったり、殴りあったり、罵り合ったりして憎しみ合うさまを幼少期からみており母から習った「人間は皆神様の子供だ」という教義に疑いを持った。

「私は、グロドノ県のビアリストクに生まれました。生誕し幼年期をすごしたこの場所が、私の将来の活動方向を決定したのです。ピアリストクには、四つの異なる民族が住んでいました。ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人です。それぞれ言葉が違い、互いに不和反目していました。感じやすい心を持つ人は、どこにもましてこの町で、言語の相違という重荷を痛感します。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、しだいに確信するようになるのです。私は理想主義者として育ちました。人はすべて兄弟だと教えられました。ところが、通りでも広場でも一足歩くたびに、私はいやおうなしに痛感しました、「人間なんていないんだ。いるのは、ロシア人やポーランド人やドイツ人やユダヤ人だけだ。」子供が抱くこんな「世界苦」をせせら笑う人もいるかも知れませんが、幼い私にとってこの経験は、いつも大きな悩みの種でした。当時は大人というものは何でもできると思っていたので、私はしじゅう自分に言いきかせていました。大人になったら、この害悪をきっとなくしてみせる。」-------引用(マージョリー・ボウルトン・著、水野義明・訳、新泉社、1993年11月1日発行「エスペラントの創始者ザメンホフ」23~24P)-------

ザメンホフのおかれた言語環境は非常に良好で、当時の教養あるロシア人は三、四ヶ国語は話せるとされていた。父からはフランス語とドイツ語を教えられた。ヘブライ語は母といったユダヤ教の教会で聞き、通りに出ればイディッシュ語が聞こえた。

1873年12月、ワルシャワに移住。父はユダヤ人検閲官(ロシア帝国内の新聞の検閲)へと職を移した。1874年に、第二文科中等学校に入学。学校ではロシア語やロシア文学、ラテン語、ドイツ語、フランス語のほかに歴史、地理、数学、理科などを習った。15歳にして新言語の開発に着手するも、1879年にモスクワ大学医学部に入学する際に父親と「卒業資格を取るまで言語研究に禁ず」と約束し一時的に中断となる。しかし、1881年にワルシャワ大学に転移する際に約束を破棄。父親に預けていた自分の新言語に対する考察を書き連ねた紙を燃やされていたため、自らの記憶を元に新言語を作り出すこととなった。 1881年にアレクサンドル二世が暗殺される。その際に反ユダヤの風潮が高まり、故国のポーランドでも反ユダヤ運動がおこった。これらのことからザメンホフは「シオニズム(ユダヤ民族主義)」についても考えるようになった。

1885年に医学博士の学位を取得。リトアニアで開業。最初はうまくいかなかったが、徐々に気流に乗る。しかし、1885年5月ワルシャワの病院で眼下学を勉強、1886年にはウィーンで眼下学の特別講座を受講している。残っている証拠によれば、新言語はこのリトアニアに滞在した間に完成したらしい。


引用・参考文献

「ルドヴィコ・ザメンホフ」 Wikipedia

「エスペラントの創始者ザメンホフ」 新泉社

HN:いじげん


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成