アフガン戦争11

出典: Jinkawiki

2015年7月31日 (金) 15:38 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

イギリスとアフガニスタンの間で起こった戦争のことをさす。19世紀に入るとアフガニスタンは中央アジアからのロシアの南下とイギリスによるインド防衛の接点となり、3次にも及ぶアフガン戦争はイギリスの干渉で起こった。

第一次は、1838年から1842年までにわたり行われた。この直前の1837年、ロシア人に指揮されたイラン軍がヘラートを包囲し、イギリス人将校がこの防衛にあたっていた。イギリスはこのロシアの進出に危機感を抱き、権力を握っていたドースト・ムハンマドを退けて、親英的なシュジャー・ウル・ムルクを王位につけようと干渉に踏み切った。1838年2月、進入したイギリス軍が、カブールに進んだ。ドースト・ムハンマド王は逃げ、1839年8月シュジャー・ウル・ムルクが王位についた。しかし、カブールでは反英の反乱が起き、1842年1月イギリス軍はカブールから東方への撤退を決定した。1万余のイギリスならびにインド人兵隊は撤退の際に命を失ったとされている。ジャララバード、カンダハールを保持していたイギリス軍は、カブールを懲罰的に再占領したが、引き揚げざるをえず、1843年イギリスは、抑留していたムハンマドをインドに送ってふたたび統治させた。

第二次は、1878年から1880年まで行われた戦争である。ムハンマド王の子のシェール・アリー王が、イギリスに対して不満を持ちロシアに接近した。これに対し、イギリス軍がカブールを占領、そして、アリー王はロシアに援助を求めて逃亡した。アリー王の子であるヤークーブが1879年に王となり、イギリスとガンダマク協定を結んだ。アフガニスタンはこの講和により、インドに領土を割譲し、イギリス使節駐在を認めた。しかし、数ヶ月後、カブールで反英蜂起が起き、使節団が皆殺しにされ、戦争が再開された。イギリスはカブールを奪回したがマイワンドで撃破されて、1880年、ムハンマドの孫アブドゥル・ラフマーンを、外交権をイギリスに譲ること、侵略に対しては援助することを条件に王位につけて撤退した。1901年ラフマーンの死後即位した子のハビーブッラーは、1915年、父がイギリスと取り決めた条約を批准したために、アフガニスタンはイギリスの保護国となった。

第三次は、1919年2月、軍部を握ったハビーブッラーの第3子アマーヌッラー・ハーンが即位し、イギリスに敵対して独立を求めたが、空襲を受けると休戦を申し入れ、この年の8月にラワルビンディ条約が結ばれ、独立が正式に承認された。この一連の戦争はここで終結した。


参考文献

三野正洋 (1998) 『わかりやすいアフガニスタン戦争』 光人社

ロドリク・ブレースウェート (2013) 『アフガン侵攻』 白水社


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成