東方問題
出典: Jinkawiki
東方問題
背景
19世紀、衰退したオスマン・トルコの領土と民族独立をめぐる列強の対立を東方問題という。
第一次エジプト事件
多民族国家オスマン・トルコ領内の諸民族の独立運動(ギリシア、エジプト、ルーマニア、セルビア、ブルガリア)の勢いは弱く、自力での独立は不可能で、列強の干渉要因となった。ロシアは穀物の販路確保、イギリスはインド・東アジアへのルート確保、フランスはエジプトに野心など、それぞれ目的は異なるものの、各民族の独立を支援して、オスマン・トルコの領土に触手を伸ばす。ギリシア独立戦争(1821~29)の際、英仏露は独立を支援し、ウィーン体制を崩壊させる。一方、エジプトは本国・トルコを支援、エジプト太守のメフメト(ムハンマド)・アリーは、トルコに自治権を要求した。トルコの拒否に対し、彼は反乱を起こした。これを第一次エジプト事件(エジプト・トルコ戦争・1831~33)という。ロシアはトルコを支援、1833年のウンキャル・スケルシ条約で、黒海北岸とロシア船のボスフォラス・ダータルネス両海峡の通行権を得る。英仏はエジプトを支援し、エジプトを勢力圏に置くことを狙った。
= ロシアの南下政策
メフメト・アリーがトルコに対してエジプトの世襲権を要求すると、トルコがエジプトを攻撃し、第二次エジプト事件が起きる(1839~40)。フランスはエジプトを支援するが、イギリスは四国同盟(英露普墺)を結成してフランスに対抗し、仲裁に入る。講和のロンドン会議で、ロシアは両海峡の通行権を返上する結果となった。クリミア戦争では英仏・サルジニアがトルコと同盟してロシアと開戦、ロシアの敗戦で黒海の中立化が決まった(パリ条約・1856)。トルコが領内のスラブ人反乱を弾圧すると、ギリシア正教徒確保を口実にロシアが宣戦布告、露土戦争が勃発する(1877~78)。勝利したロシアは領土を拡大し、勢力圏を地中海にまで伸ばす(サン・ステファノ条約)。これに反発した英墺を、ビスマルクが調停する形でベルリン会議が開催され、サン・ステファノ条約は破棄されて、ロシアの南下政策は完全に挫折する。