天正遣欧使節

出典: Jinkawiki

2009年1月17日 (土) 21:29 の版; 最新版を表示
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ヴァリニャーニの勤めで九州の大村・大友・有馬3大名がローマ法王に送った少年使節。伊東マンショ・千々石ミゲルの二人が正使、原マルチノ・中浦ジュリアンが副使。1582年に出発し、1590年に帰国。

目次

伊東マンショ(祐益:すけます)

1570~1612 大友宗麟の妹の孫。 マンショが10歳の頃のある日、道ばたに座り込んで、地面に棒きれで絵を書いていた。その時、イエズス会のペドロ・ラモン司祭から「何をしていますか」と声をかけられ、司祭は「コンペイトウ」を与えた。その後、ラモン司祭につられるままに教会に行き、いつの間にか、キリスト教の信者となって「マンショ」と洗礼を受けた。  マンショ13歳の時に有馬のセミナリオ(神学校)で学ぶことになった開校式の時、ヴァリニャーノに英才を認められ、天正遣欧使節に推薦された。 帰国後、秀吉に謁見し、地球儀・時計・測量儀を献上、布教に努めた。

千々石ミゲル(清左衛門)

1570~? 有馬晴信の従兄弟で大村純忠の甥。帰国後まもなく棄教。

中浦ジュリアン

1570~1633 遣欧副使。帰国後宣教に従事し、のちに長崎で殉教する。その時「我は、この目で、(世界の都)ローマを見た中浦ジュリアンなり!」と叫んだ。

原マルチノ

?~1629 両親がキリスト教徒であったこともあり、司祭を志して有馬のセミナリヲに入った。

遣欧副使。帰国後イエズス会出版に従事する。1614年マカオへ追放された





参考文献…日本史B用語集  山川出版


『伊東マンショの生涯』 大町三男

参考HP…http://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/unit/hito_24/index.html


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