レフ・セミョーノビッチ・ヴィゴツキー
出典: Jinkawiki
レフ・セミョーノビッチ・ヴィゴツキーは、1896年11月5日、現在の白ロシア共和国の都市オルシャで生まれた。障害児教育において新しい考え方を提唱した人物である。早熟で非凡な才能の持ち主であり、後に「心理学におけるモーツァルト」トも称されたヴィゴツキーが、心理学の研究に携わったのは、大学卒業の年から数えたとしてもわずか17年に過ぎないが、この短期間に彼は驚くほど生産的に数々の後世に残る優れた業績を多方面にわたって生み出した。そして、モスクワに出てきて本格的に心理学の研究を始めたそのときから晩年に至るまで、終始一貫して熱心に取り組んだ研究分野が「障害児の発達と教育の専門的研究」なのである。
ヴィゴツキーは、障害の構造を一次的障害と二次的障害とにわけ、教育の可能性が最も大きいのは一次的障害への対策ではなくて、二次的障害への対策であることを強調した。それまでの障害児教育は、目が見えない、耳が聞こえないといった障害を補償するための感覚運動的訓練や教育にもっぱら力を入れていて、より高次の精神活動の教育を後回しにしていたものを逆転させたのである。
文学青年としての出発
ヴィゴツキーが幼年・少年時代をどのような家庭環境の中で育ったのかは明らかではないが、後に、貴族の子弟が通うギムナジヤに入ることから考えて、おそらく経済的には恵まれた家庭で育ったと推定できる。彼が1905年頃にゴメル・ギムナジヤへ入学するが、その時期は日露戦争、ロシア第一革命と国外的にも国内的にも緊張の高まった時期である。1905年1月の「血の日曜日」事件以来、革命運動が盛んになり、各地において工場労働者のみならず、教師、学生などもストライキをもって革命に参加した。当時、ゴメル・ギムナジヤにおいてもストライキ委員会が組織され、「集会の自由」「教会参拝の非義務化」などの教育要求を掲げ、果敢な闘争を展開している。
この第一革命も失敗に終わり、それに続く反動的な政情の中で、ヴィゴツキーは1913年、ゴメル・ギムナジヤを卒業した。同年モスクワ大学法学部に入学し、同時にシャニャフスキー人民大学歴史=哲学部で学んでいる。在学中は文学に非常に興味をもっており、1915年の下書と1916年の原稿『シェクスピアのデンマークの王子ハムレットの悲劇』があることもそれを証拠付けている。この文学への関心は強く、1929年の暮れから翌年の初めにソビエトを訪れ、実際にヴィゴツキーに会った森徳治は、ヴィゴツキーの思い出を次のように記している。
「ヴィゴツキーは、大の演劇愛好家であったらしく、私に会った最初の言葉は、『私は今世界の三大名優を知っている。ロシアのスタニスラフスキー、ドイツのモイシ、それから日本の左団次である。私は日本の歌舞伎がモスクワで上演された一週間、毎日欠かさずに観劇した。本当に素晴らしかった』という挨拶であった。」