浮世絵

出典: Jinkawiki

2011年2月2日 (水) 16:56 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

概要

 近世の大衆文化の一つ。近世の浮世思想による新たな風俗画として創始。当時流行していた髪型や衣装、文物などが書き込まれていた。源流として考えられるものに、寛政美人画、草子の挿絵の二つが考えられる。  明暦三年(1657年)の正月、江戸は大火のため市街地の60%以上が焼け野原となった。新しい都市計画による復興の気運のなかから、新しい町人的なものが文芸や美術の面で出現した。これを代表するものの第一が浮世絵である。  浮世絵の「浮世」とは、元和偃武により平和になった現世をひたすら謳歌する姿勢を示している。それまでの中世的無常観である「憂世」の姿勢から訣別した態度、すなわち現世を楽土と見る考え方、つまり近世的「浮世」へと価値観を変じたところから起きたものの見方であった。そしてそれが、絵画の世界にも投影されて、浮世絵が成立した。


絵師

 開祖といえる絵師に菱川師宣(1618~1694)がいる。彼により、挿絵に署名するという風が始められた。肉筆画の「見返り美人」や、吉原風俗を描写した揃い物の墨摺り絵「吉原の躰」12枚や、絵本の『和国百女』『月次の遊び』などに絵筆をふるい、浮世絵の版画化に大きな功績を残した。版画化により、値段の安くあがり、浮世絵が歓迎され市民に広く普及する大きな理由となった。  師宣につづく奥村政信(1678~1764)は絵師であるとともに版元を兼ねた。従来、墨一色摺りであったものに筆彩色を加え、また紅・草の二色で色刷りにする紅摺絵の出現に貢献。  錦絵の創始期に活躍した鈴木晴信(1725~1770)は、それまでの画材の中心が遊女であったのに対し、一般婦女子の日常生活をテーマに美人画に新風をうみだした。その頃、一筆斎文調(作画1764~1780)や勝川春章(1726~1792)により役者の似顔絵が普及し、芝居好きの人々に喜ばれ、浮世絵をさらに庶民生活のなかに溶け込ませた。やがて、特異な東洲斎写楽(生没年不詳)が彗星のように現れるが、今日まで多くの謎を残したまま、わずか10ヵ月の間で喪失した。  浮世絵の頂点は喜多川歌麿(1753~1806)がでて頂点に達したといえる。彼の美人画は写楽の役者絵、北斎の風景画などとともに国際的に評価が高い。  役者絵や美人画に対する幕府の取り締まりは、一方で風景画を盛んにした。葛飾北斎かっこ


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成