ノート:く
出典: Jinkawiki
グルントヴィ
ニコライ・F・S・グルントヴィ(Nikolaj Frederik Severin Grundtvig 1783-1872)は、有名な童話作家アンデルセンや哲学者キェルケゴールの友である。国際的にはアンデルセンやキェルケゴールの方が知られているが、デンマークではグルントヴィが一番尊敬されている。それは彼こそが近代のデンマークのあり方を決め、近代デンマーク精神の父とも呼ぶべき存在だからである。
デンマークの国民的詩人 グルントヴィはまず牧師として活動するが、体制化して堕落した既成のキリスト教を批判して、その職を奪われた。その後、詩人として活躍し、始めは北欧神話に題材をとったもの、次にはデンマークの風土、自然、農民の生活などを詩にあらわして、それらが賛美歌となり、デンマーク国民に愛され、歌われることとなった。デンマーク人のどの家庭にも彼の歌が数多く含まれた賛美歌集やフォルケホイスコーレ歌集がおかれ、今日でもデンマーク人は冠婚葬祭、誕生日や学校の行事、あるいは家族や友人の団らんなどで、必ずグルントヴィの歌を歌うという慣習が根づいている。人々は生まれてから死ぬまで、彼の歌で祝い、悲しみ、喜びをわかちあう。デンマークほど、歌が人々の生活に息づいている国はない。
フォルケホイスコーレの創始者 詩とならんで、歴史家としても活躍し、「北欧神話」の再評価に貢献したが、彼の一番の貢献は、フォルケホイスコーレ(語義的には「民衆の大学」)を提唱したことである。グルントヴィは既成の学校が無意味な暗記、試験、理念のない実学教育、立身出世をめざす競争を施しているとして、それらを「死の学校」と呼んだ。彼は「教育(教え導く)」という言葉を嫌い、教育とは本来「生の自覚」を促すものだと考えた。「生きた言葉」による「対話」で、異なった者同士が互いに啓発しあい、自己の生の使命を自覚していく場所が「学校」であるべきなのだ。そうした理由から、彼は「生のための学校(School for Life)」の構想を1838年に発表した。彼はその序文でこういっている。
「われわれだけでなく、あらゆる国民は『死の学校』を知っている。というのも、どこの学校でも大なり小なり文字で始まり、本の知識で終わるからである。それが人が『学校』という名で読んできたもののすべてだし、今もそうである。たとえ聖書のように天使の指先や星のペンで書かれたところで、あらゆる文字は死んでいる。あらゆる本の知識も死んでいる。それは読者の生と決して一致することがない。数学や文法だけが心を破壊し死なせるのではない。子ども時代、人が心と体の適正な発達にいたる以前に、学校で頭を使うあらゆることがすでに無益な消耗なのだ」。(『生のための学校』1832年)
試験も資格も問わず、学びたい者が自由に学ぶこの学校は、当時の農民解放運動に支持されて、デンマーク中に広まった。無学で、都市のブルジョアからさげすまれた地方農民たちは、この学校で学んで、社会意識に目覚め、卒業生たちは世界最初の農民協同組合をつくり、農民政党を組織して(デンマークの歴史では農民政党は「左翼党」といわれ、左派に属した)、労働者と協力してついには政権を平和的に奪取した。デンマークが豊かで、民主主義が浸透し、高度の社会福祉が整い、弱者に優しい国家となったのも、実はフォルケホイスコーレ運動があったからこそなのだ。それゆえに、グルントヴィは、近代デンマーク精神の父でもありえるのだ。
その思想は「民衆の自覚(フォルケオプリスニング、Folkeoplysning)」 グルントヴィの精神は今では当たり前すぎて、普通のデンマーク人はとくに意識していない。それは一般には「フォルケオプリスニング」という名前で知られている。これは義務教育を意味したり、成人教育の意味でもあり、また地域の体育活動、図書館活動や大学の公開講座なども含む多義的な言葉だが、60年代終わりの学生革命の時代には、グルントヴィがマルクスやゲバラ、毛沢東らと並んでヒーローになったりもしたので、こうしたオルタナティヴでラディカルな側面も含んでいるのだ。70年代から80年代にかけては、この民衆運動は原子力発電に反対する風力発電や環境保護の運動となり、とくに風力発電は今ではデンマークの代表的な輸出産業となった。グルントヴィの精神はデンマークの教育と市民運動の中に今でも生き続けているのだ。