パレスチナ問題9
出典: Jinkawiki
背景
十九世紀末、ヨーロッパではユダヤ人の迫害が激しくなり、パレスチナへの帰郷運動であるシオニズムが発生する。しかし当時のパレスチナでのユダヤ人の割合はごく小さく、大多数のイスラム教徒と少数派のキリスト教徒は、パレスチナの地で大きな対立も起こさず、居住していた。シオニズムの高まりによって、多くのユダヤ人がパレスチナへ向かうが、シオニズムは「パレスチナはユダヤだけの地」とする思想でもある。パレスチナの中心であるエルサレムは、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の聖地であるが、シオニズムの発想はエルサレムのユダヤ人独占を狙う。ユダヤ人帰郷者が増えるにつれ、居住していたイスラム教徒との間に、対立が生まれた。
エルサレム
当時エルサレムはオスマン・トルコの領土であったが、第一次世界大戦でトルコと開戦したイギリスは、トルコ軍の後方攪乱を狙って、大戦終了後にはアラブ人に独立国家の建国を認めるフセイン・マクマホン協定を交わす(1915)。「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・ローレンスは、イギリス将校として、フセインのもとでアラブ人の対トルコ戦争を指導した人物である。