冷戦9

出典: Jinkawiki

2018年1月27日 (土) 14:14 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

冷戦101. 冷戦とは


「冷戦」とは武力での争いをする「熱戦」とは違い、直接武力で戦うことがなかったため、「熱戦」とは真逆の「冷戦」と呼ばれるようになった。

2.冷戦の原因


 冷戦の原因は、第二次世界大戦後の1945年2月に行われたヤルタ会談で、ドイツを含む中東部のヨーロッパを東西陣営に分割することをソ連とアメリカ、イギリスによって、戦後処理を決定した会談である。ブルガリアやルーマニアなどでは、このヤルタ会談が決まったことにより、ソ連軍が進駐した。ソ連は共産主義勢力を中心とした政権が樹立することになってポーランドを取り込み社会主義勢力の拡大化となった。1946年にイギリスの元首相のチャーチルによってアメリカにて演説を行った。その演説をフルトン演説と呼んだ。「鉄のカーテン」という単語を使い、ソ連などを中心とした社会主義勢力の拡大化に対して警告をした。この演説により、1947年にアメリカ大統領のルーマン・ドクトリンがトルコとギリシアの防衛を引き受けた。これが、冷戦の宣戦布告といわれている。

3.冷戦中


 アメリカは約3年間で120億ドルもの大金を使い、西ヨーロッパ復興援助計画を行った。この計画をマーシャルプランと呼ぶ。しかし、ソ連はこの計画を批判した。そして、ベルリン封鎖が1948年にドイツで起こった。この時のベルリンはアメリカ、イギリス、フランスの資本主義陣営が西側、ソ連の社会主義陣営が東側を占拠していた。アメリカは1949年にソ連が封鎖を解除するまで、西側に物資を送るため、空軍を使った。その後、北大西洋条約機構(NATO)を1949年に結成した。これは、アメリカが西ドイツの独立を認めて西ヨーロッパの軍事同盟強化のためであった。一方ソ連でも東ドイツの独立を認めて、経済協力機構が東欧諸国に1949年に設置された。また、ソ連は社会主義国家の団結を強め、アメリカに対抗するためにワルシャワ条約を1955年に作った。冷戦の影響はアジアにももたらされた。中華人民共和国がソ連と、朝鮮半島やベトナムではアメリカと手を組み、代理の戦争が行われた。その後核戦争になりかけたが、両国は危機感を感じ、両国間で戦略兵器制限交渉などをし、一時冷戦は緊張緩和の時代へと移行した。しかし、1979年にソ連がアフガニスタンを進攻した。これは共産主義政権を支えるという名目であった。これを機に新冷戦時代に突入した。その後、アメリカとソ連はお互いに軍事力を強化していった。

4.冷戦の終結


 軍事力を強化したのはいいが軍拡にたくさんの費用が必要で両国とも赤字に悩まされており、1985年にゴルバチョフ大統領とレーガン大統領による首脳会談がはじめられた。さすがにお金も無くなってきたので、1989年にゴルバチョフ大統領とブッシュ大統領によって冷戦の終結となった。

5.引用


http://www12.plala.or.jp/rekisi/reisen.html

T.G


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成