武田信玄

出典: Jinkawiki

2009年1月19日 (月) 00:17 の版; 最新版を表示
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武田信玄

 甲斐の守護である武田信虎の子として1521年に生まれたのが武田信玄である。元服名は晴信。 父である信虎は領国支配に力を入れていたが、悪逆非道な面もあり、民衆からの信頼を失いつつあった。信玄は民衆からの意思を受け、1541年に父を駿河の今川氏のもとに追放し、21歳で家督を継いだ。

 信玄は武将としても、また政治家としても優れていたといわれている。まずは自国の戦力を高めることから始め、領国の民の栄養失調に対して米のとれる土地をとる必要性から、諏訪氏を滅ぼして諏訪平の米産地を手に入れた。また、1542年には武田憲法なる「甲州法度」を設け、自らの政治方針を明らかにした。そこには戦国大名である自覚や、自ら定めた法を自らは守るという意思表示が示されている。

 また、上杉謙信との戦いである川中島の戦い(1561)では、軍師である山本勘助の策略、キツツキ戦法が行われた。信濃全域を手中におさめた信玄は、つぎに駿河を押さえる必要があった。当時、駿河では桶狭間の戦いで今川氏は軟弱化しており、信玄は直ちに攻め込む決意を固めていた。しかし、信玄の長男である太郎義信は今川氏真の妹を妻にしており、父である信玄の考えを支持することができなかった。よって、信玄は義信を幽閉し3年待った翌年、駿河の小田原城を攻め、制圧した。義信は幽閉された3年後に31歳で亡くなったが、その死は病死とも自害とも言われている。

 さらに信玄は、反信長勢力と結んで上洛に向かった。1572年、信玄は3万人の大軍を率いて遠江の三方ヶ原で徳川、織田連合軍1万1000を見事粉砕した。しかし、彼は結核という病のため上洛を中止し、いったん甲斐に引き上げる途中、1573年、53歳のとき、信州伊奈郡の駒場で息を引き取った。


   疾(はや)きこと風の如し    徐(しづ)かなること林の如し    侵掠(しんりゃく)すること火の如し    動かざること山の如し    「風林火山」


 信玄は亡くなる前に遺言を残していたといわれている。それは「3年間喪を秘せ」というものだったと『甲陽軍鑑』に書かれているそうだ。しかし、戦国の時代、3年間も喪を隠して戦わないでいたら、武田は滅びるであろう。これは、信玄を盛りたてた家臣軍が作ったとも考えられている。 信玄が亡くなってからの武田氏は勝頼によって引き継がれたが、まだ弱体だったため、3年間時間稼ぎをしたのかもしれない。しかし、その後、1575年に三河長篠の合戦で致命的な打撃を受け、武田氏は滅亡した。




角川書店編 1983『日本史探訪9』角川書店

河合 敦 2005『スーパービジュアル版 早わかり日本史』日本実業出版社

武光 誠 2000『3日でわかる戦国史』ダイヤモンド社


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