アダム・スミス2
出典: Jinkawiki
アダム・スミス(1723年6月5日(洗礼日)~1790年7月17日)。イギリスの哲学者・経済学者。著書『国富論(諸国民の富)』の中で、価格の自動調節機能を神の「見えざる手」と呼び、それを根拠として、国家活動は、司法や防衛など必要最低限のものにすべきであるとする「安価な政府」の考え方を提唱した。
スミスの生涯
アダム・スミスは、1723年に、カーコールディのハイ・ストリートで生まれた。父は同名のアダム・スミスで、家系はアバディーンシャーの小地主にさかのぼることができる。アバディーン大学に学んだあと、スコットランド国務相となったラウンド伯の秘書官やスコットランド軍法会議書記官を勤め、最後はカーコールディの税関監督官となったのだが、次男アダム・スミスが生まれる前に世を去った。母マーガレット・ダグラスは、ファイフの地主の出で、父アダム・スミスの二度目の妻であった。
スミスの思想と学問
スミスは、人間を、何よりもまず自分のことを考えるものだという意味で、利己的な存在と捉えるのである。しかし、『道徳感情の理論(※)』では、人間は利己的ではあるけれども、他人の幸不幸にも関心を持たせるものを本源的に持っており、他人の幸福を必要たらしめる、といった内容も述べている。つまり、スミスは、人間を二通りに捉えていたことになる。一つが、利己心を中心に人間を捉えるもの、もう一つが、利他人を中心に人間を捉えるものである。いずれも、現世に於ける人間の幸福の実現ということを中心に、物事を経験的に考えようとする点では、共通の土俵に立つものではあった。また、スミスは、人間を、性善説や性悪説のように固定的ではなく、さまざまな可能性をもったものとして捉えていた。人間は誰でも、知的にも道徳的にも、成長することができるし、また堕落することもできるのである。スミスの学問は、人間と社会に関する豊かで細やかな観察に基礎を置いており、人間的真実を多く含んでいる。学問の中核には、人間が自律的な個人として成長する条件を歴史的に探り、そうした自律的な個人の織り成す自由な社会の存立条件をあきらかにするという、抑圧からの人間の解放の課題がすえられていた。
※道徳感情の理論:上巻では、私たちがどこそこで行動するにあたって、「相応しい・正義にかなう・価値があるのか否か」等についてや、思うところはどのように形成されるのかについて、また、内面に形成された第三者的自己の果たす役割などで説明している。 下巻では、行為の領域をさらに広くとり、普遍的なものにまで及ぼして考察してある。
要するに社会のありようを感情に由来させる論だ。訳文は、原文に忠実で、あることを重んじた訳者の誠意を推察させるものである。生きるのにもいろいろと大変な時代だったに違いない、ということと、人間はむかしも今も、あっちでもこっちでも大して変わらないらしい、と実感させられる本である。
三つのスミス像
ごく大づかみに観察すると、これまでの日本人にの目には、スミスが三つの顔を持って次々に現れてきたように見える。第一の顔は、自由貿易と産業立国によって新しい日本の行手を指し示す導きの星として、「経世化の顔」であった。大体において明治のスミスはこんな風に受け取られていたと思われる。スミスという人は、いかにしたら後進国日本を富裕で強大な一人前の近代国家に育て上げることができるかというその方策を教えた先進国イギリスの巨星だったのである。大正期に入ると、スミスの顔は一変した。スミスをもっと「アカデミックな人間」としてみようとする機運に変わってきたのである。思想家としてのスミス、道徳哲学者としてのスミス、経済学者としてのスミス、そんなことが熱心に議論されるようになった。大正のスミスはもはや実際家や政治家の手からはなれて、学者や教師の手に移ったのである。終戦後におけるスミス研究では、第三の顔が挙がった。第三期のスミス像は「おそろしく専門化したスミス像」である。スミスは自由思想家として、哲学者として、道徳哲学者としてもさらに深く研究されるようになった。たんに経済政策家としてだけではなく、経済理論家として、また経済史家としてもさらに深く研究されるようになった。そればかりではない。スミスは、法学者であり、社会学者であり、文明史家であるという広い視角から研究されるようになった。このように、人々は今や自由に、大胆に思い思いの視角からスミス像を作り上げようとしているように思われる。
《参考文献》
- アダム・スミス 高島善哉著 岩波新書
- アダム=スミス 浜林正夫,鈴木亮 共著 清水書院
- 世界の思想家10 アダム・スミス 杉山忠平編
- 最新図説 政経 浜島書店