上杉謙信
出典: Jinkawiki
上杉謙信
1530(享禄3)年、越後守護代である長尾為景の末子として、春日山に生まれた。幼名は虎千代、元服名は景虎、政虎、のちに輝虎である。 父為景は苦心の末、越後を統一するが、その父の死後、兄である晴景が家督を継いで国は乱れた。その後、謙信を支持する派と晴景を支持する派に国が分かれ、1547年に謙信が勝ち、春日山城の主となった。この時、まだ19歳であった。そして1570年に入道し、信玄と称す。
謙信は、自分の欲ではなく「義理人情」のために強敵と戦っていたと言われている。上杉謙信といえば、武田信玄との川中島の戦い(1561)が思い起こされるが、この戦いに臨んだ理由の1つには、先に武田氏に信濃を追われた村上義清が「なんとかして旧領を回複したい」と信玄に懇願してきたことがあげられる。川中島の戦いでは武田軍を相手に「車がかり戦法」を繰り広げた。また、関東についても同様である。関東管領であった上杉憲政が勢力を広げてきた北条氏に追われ、謙信のもとに「関東の平和を回復」するよう求めたことがきっかけで、謙信は関東への出兵を決意するようになったようだ。このように、謙信の出兵は領地を奪われた者に対して、それを取り戻すために行われていたといえる。
また、彼は仏教を守護する四天王の1つである「毘沙門天」を熱心に崇拝していた。毘沙門天は戦勝の神であり、謙信の軍旗には「毘」の文字が印されている。さらに、人々は謙信自身を毘沙門天の化身だとして畏敬の念を抱いていたとも言われている。 下克上の時代であったにもかかわらず、彼は旧来の秩序を保とうとしていた。晩年には将軍足利義昭の呼びかけ応え、柴田勝家率いる織田の大軍を1588年に加賀の手取川で粉砕するなど、信長の天下統一にも大きな打撃をあたえている。 しかし、戦国大名の中ではナンバーワンの酒豪とも言われ、1578年に関東制覇に向けての準備中に春日山城で脳卒中のため、49歳でこの世を去った。
戦国の世にも、自分の私欲だけでなく他人への人情があったということを示す代表が謙信であろう。頼み事にはきちんと応えるということからも周りの信頼が扱ったことをうかがわせる。また、敵に塩を送る」という言葉がある。これは1567年(永禄10年)に信玄が今川氏との同盟を破棄して東海へ進出しようとした際に、今川が北条氏に掛け合い、武田への「塩留め」を行った。海に面しておらず、塩をとることができないために領民が苦しんでいた。それを見過ごすことができずにライバルであった信玄に塩を送ったのがこの上杉謙信である。このように、どんな時も義を重んじていた謙信は、戦国武将の中でも特徴的な人物であろう。
謙信や信玄は戦国時代のエースとして名高いが、中学校の教科書にはその名前は取り上げられていない。戦国時代の各国の納め方、また戦国武将の特徴を知ることで、当時の地理感や武将の駆け引きを実感として理解することに繋がり、歴史に関心をもつきっかけになるだろう。
特記
上杉謙信の特筆すべき点はやはり同年代の戦国大名達との違いである。その点が、上杉謙信の評価(義の武将、人情のある武将等)にも繋がっている。つまり、領土欲がなかったということである。これは非常に異質な存在であるといえる。戦国時代の武士のあり方を今の一般的なイメージとは違ったものであり、忠義などというのはただの社交辞令に近いものがあった。忠義というものはあの時代においては、見返りを基礎とした信頼関係なのである。つまり、大名は領土を拡大して部下に褒美を与え続けなければいけなかったのである。そんなわけで、大名たちは皆領土を拡大し続けなければなかった。この背景が分かれば、上杉謙信の凄さは戦が強かったということも挙げられるが、内政手腕だということが分かる。
参考資料
角川書店編 1983『日本史探訪9 戦国の武将たち』角川書店
河合 敦 2005『スーパービジュアル版 早わかり日本史』日本実業出版社
武光 誠 2000『3日でわかる戦国史』ダイヤモンド社
2007 歴史雑学BOOK 図解 戦国大名 格付け (ローレンスムック 歴史雑学BOOK) (大型本)