上杉謙信2

出典: Jinkawiki

上杉謙信


目次

上杉謙信

 享禄3年(1530)1月21日、越後の春日山城で生まれる(現在の新潟県上越市)。  長尾為影の四男。寅年生まれなので、幼名は虎千代。元服後は景虎とした。

国主となるまで

 勝ち戦を続ける景虎の信頼と人望はかなりのものだった。しかし、兄・晴景は、弟・景虎がいつか自分の力を超えるであろうと恐れていて、従兄弟でもある長尾政景もまた、恐れていた。政景は、景虎が諸将を味方に引き入れて、晴景を陥れようとしていると進言した。先手を取った方が勝ちだと晴景に入れ知恵し、政景は六千の兵を引き連れ、景虎の城に攻め入った。しかし事前に感づいていた景虎は、迎え撃つ準備をしていた。この状態を上杉定実が知り、晴景に景虎と和議を結んで、養子に迎えるようにとの画策をする。景虎もこれを承諾し、兄弟は父子の義を結び、景虎は長尾氏を継ぐことになった。さらに定実は晴景を隠居させ、春日山城城主・守護代として景虎に努めるようにした。二年後、定実が、その三年後には晴景が没し、景虎は越後の国を名実共に治める国主になった。

因縁の仲-武田信玄-

 上杉謙信は、信玄をかなり嫌っていたといわれている。自分の父親を追放したり、敵を欺き、貶めたりする信玄が、道徳観に反していると毛嫌いしていた。しかし、武田信玄の死には悲しみを感じていたようだ。食事中だった謙信は持っていた箸を落とし、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや(残念なことである。好敵手を失ってしまった。英雄人傑とはまさに信玄のことなり。)」と涙を流した。

上杉謙信の逸話-敵に塩を送る-

 武田信玄が今川氏真と対立して塩を止められたときには、信玄は越後から甲斐、信濃の武田領に塩を送った。謙信は闘いは正々堂々するもので、領民を苦しめるのは卑怯だと見過ごせなかった。

参考文献

-上杉謙信の生涯 戦国武将逸話(上杉謙信、徳川家康)-戦国探求[1] HN.Match


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成