大正時代
出典: Jinkawiki
2015年7月28日 (火) 17:48の版 Bunkyo-studen2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
最新版 Bunkyo-studen2014 (ノート | 投稿記録) |
||
1 行 | 1 行 | ||
- | 歴史 1912年7月、明治天皇が崩御に伴って大正天皇が即位した。ここからが大正時代の始まりである。明治の後、昭和の前の時代。 | ||
- | 1914年、オーストリアの継承者がセルビア人に暗殺される、サライェヴォ事件が起こった。これにより、第一次世界大戦が勃発。 | ||
- | + | == 概要 == | |
- | オーストリア側・・ドイツ、オーストリア、ブルガリア、オスマン帝国 | + | 1912年7月、明治天皇が崩御するとともに大正天皇が天皇の位置に即位した。 |
- | セルビア側・・・・ロシア、フランス、イギリス(三国協商)+イタリア+アメリカ | + | |
- | 内閣 1912年12月 第三次桂内閣の成立。主な出来事は「民族打破・憲政擁護」をかかげ第一次護憲運動が始まった。 | ||
- | 1913年2月 第一次山本内閣の成立。文官任用令、軍部大臣現役武官制の現役規定を排除で政党の拡大をはかった。しかし、海軍高官の汚職事件であるジーメ ンス事件を契機に退陣。 | + | == 内閣== |
+ | '''第三次桂内閣''' 1912年12月に成立。しかし、立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄両名は政権独占であると訴え、「民族打破・憲政擁護」をかかげて第一次護憲運動をおこした。この運動により第三次桂内閣は50日ほどで退陣した。これを大正政変と呼ぶ。 | ||
- | 1914年4月 第二次大隈内閣の成立。立憲同志会を与党として発足。このとき第一次世界大戦が勃発。日本の中国進出が高まり、陸軍の2個師団増設案は議会 で可決される。 | + | '''第一次山本内閣''' 1913年2月に成立。文官任用令を改めたり、軍部大臣現役武官制を排除する活動を行うことで政党の影響力拡大を考えた。しかし、山本内閣は海軍高官の汚職事件が発覚し退陣した。海軍高官の汚職事件をジーメンス事件と呼ばれている。 |
- | 1916年10月 寺内正毅内閣が超然内閣として成立。北方軍閥の段祺瑞に巨額の借金を与え、中国での権益の拡大を図った。1917年には、中国進出にマイナ スな印象を持っていたアメリカと、石井・ランシング協定を締結した。 | + | '''第二次大隈内閣''' 1914年4月に成立。この内閣の時に第一次世界大戦が起こる。中国進出が進み、陸軍の2個師団増設案は可決となった。 |
- | 1918年9月 平民宰相と呼ばれる原敬内閣の成立。直接国税を3円以上に引き下げ、小選挙区を導入。公約はあまり果たせずに1921年、暗殺された。 | + | '''寺内正毅内閣''' 1916年10月に成立。この内閣は超然内閣であった。また、西原借款で中国での権益の拡大をはかった。1917年にアメリカと石井・ランシング協定を結び、中国の領土保全・門戸解放と日本の特殊権益の承認を確認した。 |
- | 1921年11月 高橋是清内閣の成立。ワシントン会議が開催された。 | + | '''原敬内閣''' 1918年9月に平民宰相と呼ばれる原敬内閣の成立。主な行動は直接国税を3円以上に引き上げ、小選挙区制を導入した。しかし、あまり活動せずに党員による汚職事件が発覚し、そして1921年に青年により原敬は暗殺された。 |
- | 1922年6月 加藤友三郎内閣の成立。 | + | '''高橋是清内閣''' 1921年11月に成立。ワシントン会議が開催され、この会議でワシントン体制が生まれた。 |
- | 1923年9月 第二次山本内閣の成立。 | + | '''加藤友三郎内閣''' 1922年6月に成立。協調外交を展開。1923年に関東大震災が起きる。 |
- | 1924年 清浦内閣が超然内閣として成立。憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派が反発し、第二次護憲運動が起こる。 | + | '''山本権兵衛内閣''' 1923年9月に成立。青年、難波大助による昭和天皇狙撃事件である、虎の門事件が起こる。 |
- | 1924年 加藤高明内閣の成立。1925年、普通選挙法が成立。また、治安維持法も成立した。 | + | '''清浦圭吾内閣''' 1924年1月に成立。憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派が反発し、第二次護憲運動がおこる。 |
- | + | == 文化 == | |
- | 文化 大正から昭和の初期は、大衆を担い手とする大衆文化が普及。第一次世界大戦後は学校に通う人が増え、高等教育機関も増えた。衣食はトンカツなど西洋の食べ物が普及し、建築は和洋折衷の文化住宅がつくられた。水道、ガスも普及したが農村と都市の文化格差は大きかった。マスメディアの面では新聞、雑誌特に総合雑誌が普及した。ラジオ放送が開始され1926年には日本放送協会(NHK)が設立。映画では無声映画(サイレント)が人気であった。また1930年代には有声映画(トーキー)の上映が始まった。 | + | 食ではカレーライス、トンカツなど洋風料理が普及した。建築面では和洋折衷の文化住宅がつくられた。水道・ガスが都市を中心に普及したが、農村と都市の格差はかなりあった。教育もの充実度が上がり、国民のほとんどは文字が読めるようになっていた。総合雑誌が発展し、一冊一円の円本が登場した。東京・大阪・名古屋でラジオ放送が開始された。無声映画や有声映画の上映も始まった。 |
- | 参考文献 Gakken 日本史の要点整理 | + | 参考文献 Gakken 日本史の要点整理 |
- | N.S | + | S.N |
最新版
概要
1912年7月、明治天皇が崩御するとともに大正天皇が天皇の位置に即位した。
内閣
第三次桂内閣 1912年12月に成立。しかし、立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄両名は政権独占であると訴え、「民族打破・憲政擁護」をかかげて第一次護憲運動をおこした。この運動により第三次桂内閣は50日ほどで退陣した。これを大正政変と呼ぶ。
第一次山本内閣 1913年2月に成立。文官任用令を改めたり、軍部大臣現役武官制を排除する活動を行うことで政党の影響力拡大を考えた。しかし、山本内閣は海軍高官の汚職事件が発覚し退陣した。海軍高官の汚職事件をジーメンス事件と呼ばれている。
第二次大隈内閣 1914年4月に成立。この内閣の時に第一次世界大戦が起こる。中国進出が進み、陸軍の2個師団増設案は可決となった。
寺内正毅内閣 1916年10月に成立。この内閣は超然内閣であった。また、西原借款で中国での権益の拡大をはかった。1917年にアメリカと石井・ランシング協定を結び、中国の領土保全・門戸解放と日本の特殊権益の承認を確認した。
原敬内閣 1918年9月に平民宰相と呼ばれる原敬内閣の成立。主な行動は直接国税を3円以上に引き上げ、小選挙区制を導入した。しかし、あまり活動せずに党員による汚職事件が発覚し、そして1921年に青年により原敬は暗殺された。
高橋是清内閣 1921年11月に成立。ワシントン会議が開催され、この会議でワシントン体制が生まれた。
加藤友三郎内閣 1922年6月に成立。協調外交を展開。1923年に関東大震災が起きる。
山本権兵衛内閣 1923年9月に成立。青年、難波大助による昭和天皇狙撃事件である、虎の門事件が起こる。
清浦圭吾内閣 1924年1月に成立。憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派が反発し、第二次護憲運動がおこる。
文化
食ではカレーライス、トンカツなど洋風料理が普及した。建築面では和洋折衷の文化住宅がつくられた。水道・ガスが都市を中心に普及したが、農村と都市の格差はかなりあった。教育もの充実度が上がり、国民のほとんどは文字が読めるようになっていた。総合雑誌が発展し、一冊一円の円本が登場した。東京・大阪・名古屋でラジオ放送が開始された。無声映画や有声映画の上映も始まった。
参考文献 Gakken 日本史の要点整理
S.N