アフガン紛争(1978-)

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目次

アフガン紛争とは


 アフガン紛争とは、1978年から始まったアフガニスタン民主共和国での戦争である。アフガニスタン民主共和国内においてアフガニスタンの共産主義政権およびソビエト連邦とアフガニスタン国内のイスラム系反政府勢力「ムジャヒディーン」が戦闘を行った。


勃発までの経緯


 1919年、イギリスから独立したアフガニスタンは王国制を採用し、1933年以降はザーヒル・シャーが国王となり、国を統治していたがアフガニスタンは部族社会で、地方では国王の権力より部族の有力者の権力が強かった。

 ザーヒルの在位中に勃発した第二次世界大戦および米ソ冷戦においては中立の立場を保ち、各国から援助を引き出していた。特に米ソ冷戦の時代、アメリカとソ連が実施した援助は「冷戦の中の熱い援助合戦」と呼ばれるほどだった。

 1953年に首相に就任したムハンマド=ダウード=ハーンは国王の従兄弟で、カンボジアを近代国家にするため積極的な改革を進めたが、他方、パシュトゥーン人を優遇した姿勢からパキスタンと対立し、国境閉鎖や国交断絶の危機を打開するため辞任に追い込まれた。

 また王政の改革に満足できない人々は、1965年に社会主義を目指す「アフガニスタン人民民主党(PADA)」を設立し、一方でイスラム国家の建設を目指す勢力も運動を開始した。



クーデタの勃発


 1973年、PADAの助けを借り、ダウードがクーデタを起こし、王政は廃止され「アフガニスタン共和国」を樹立した。しかしアメリカやソ連との距離に配慮し、PADAを排除する動きを見せたダウードは、1978年4月に起こった「社会主義革命(4月革命)」により一族ごと殺害された。その結果、PADAが政権を握り、「アフガニスタン民主共和国」が樹立され、ヌール=ムハンマド=タラキが大統領、フィズッラー=アミンが副大統領となった。政府は社会主義の思想を基にした政策(土地や教育の改革、女性の社会進出など)を打ち出したが、これらの政策はイスラム保守層などの一部の人々の反発を招き、各地で反乱がおこった。また政府高官の逮捕など政府内でも混乱が起こり、1979年3月にタラキは失脚し、アミンが大統領になった。


ソ連の介入


 1979年12月、ソ連は、社会主義政策を推し進める一方でアメリカと接触を持とうとしていたアミンを危険視し、アミン自身の軍事的要請に応じる形でアフガニスタンへの軍事的介入を開始しました。これにはムジャヒディンへパキスタンを経由し密かに武器などを支援をしていたアメリカへの対抗やイスラム勢力への抑止という側面もある。ソ連の侵攻時、アミンはソ連によって暗殺され、代わりの大統領としてバブラク・カルマールをトップにした新政権を樹立した。このころからその後、1989年にソ連は長期にわたる戦闘にも関わらず大きな成果を挙げられず、被害も甚大となっていったことから、1988年に締結された「ジュネーブ協定」にのっとりアフガニスタンから撤退する。この2年後にソ連は崩壊を迎える。


その後の影響


 ソ連撤退後のアフガニスタンではソ連の後ろ盾がなくなった社会主義政権はムジャヒディンによる連立政権にとって代わられ、また国内のイスラム勢力は思想の違いから衝突を繰り返し多くの被害を出した。その後、「タリバン」が勢力を伸ばし、1996年には首都であるカブールを制圧し政権を取った。「タリバン」はのちに他国からのイスラム教徒と連携して理想のイスラーム国家を目指して、様々な行動を起こしていく。


関連項目


アフガニスタン紛争(2001-)

タリバン3

アフガニスタン1


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